眠れぬ夜の小夜曲 - 1/6

<1> tell me where you’re going.

 借りは返せばいい。
 あの男が必要としているのは誰にも文句を言わせない経歴だと繰り返し言われている。経験のない若輩者がこの世界で生きて行く為には肩書きが必要なのだと。
 それさえ手に入れられたのならば、直ぐに望むものを用意すると、あの男は言った。
 立場も、力も。
 酔いに火照る体に十二月の凍えた空気が心地よい。この季節に心地良さを感じる矛盾に、流石に少々酔ったようだとシュウはターミナルを急ぐ。
 ――スピリタス。
 飲まされたばかりの酒の名前を口の中で呟く。
 話のタネに置かれている酒を当然と男は注文し、笑うマスターに構わず飲み干した。盃を重ねるにつれ、マスターの表情は苦笑に変わり――最後には「クレイジーだ」と失笑するに至った。極寒のシベリアならいざ知らず、ここはニューヨークである。寒波もまだ遠いこの地で飲むには純度98%の酒は強過ぎる。
 男は月に一度、多くて二度シュウを誘った。
 資金の援助をしているのは男である。複数の研究室に身を置いて博士課程をこなすシュウの修学状況を男が把握したがるのは当然だ。その報告の場がバーになるのは恐らく男の趣味なのだろう。とにかく男は水を飲むように酒を飲む。酒は思考能力を低下させるものだと忌避するシュウに、その程度で低下する能力なら援助をする意味がない――とまで言い切る男は無類の酒好きなのだろうか。学会でも相応の著名度を持つ男の頭脳は、酒程度では左右されないようだ。
 舐めた程度の酒が体に回っている。自分は普通に歩いているつもりだが、他人にはどういった風に見えるのだろう。スピリタス――もう一度口の中で繰り返して、シュウは白い息を吐きながら歩く。
 バスターミナルに並ぶ人を横目に、タクシー乗り場に向かう。
 ストアマーケットの袋を抱えた黒人ニグロの女性が恰服のいい体に娘を引き寄せ暖を与えている。その後ろに並ぶ白人ヤンキーの青年は、刺青が覗く手で煙草を弄んでいる。先頭には酔いに上機嫌のアジア系ビジネスマンエコノミックアニマル。歌とも知れぬ歌を口ずさみ、いつ来るとも知れないバスの時刻表を眺めている。
 その様子をただた目的なく眺めるシュウの目前に、タクシーが滑り込んで来る。扉が開き乗り込む最中、思いがけず視界に捕らえてしまったバスターミナルの最後尾に並ぶ上品な貴婦人ヤッピーの不躾な視線が痛い。
 若いのに贅沢な、とでも思っているのだろか。それとも流石は黄色人種イエローと思っているのだろうか。どちらにしてもそれは、決していい意味での視線ではなかった。何を言うにも遠いバスターミナルとの距離にシュウが溜息を洩らすと、早くしろとタクシーの運転手が短くクラクションを鳴らす。
「――失礼」
 座席に潜り込む。
 暖気の利いた車内に一心地つこうと屈んだ頭を戻しかけた、その目先にほっそりとした肩口が見える。女性のものにしては些か堅い曲線を描いている。
フリースジャケットの白い生地、首元には黒いマフラー……シュウが顔を上げると幼な顔の青年と視線が合う。
 相乗りなのだろうか――無愛想な表情でシートに体を埋めていた青年は、その瞬間表情を和らげた。二十歳そこそこのくるりと開いた眼が印象的な東洋人ジャップが、人懐っこくシュウを見上げている。
 人種の坩堝サラダボウルと言われるアメリカでも、東洋人が少数派なのは紛れもない事実だ。日系アメリカ人とて少ない。多くの白人と多くの黒人と、そしてその間に挟まれるように黄色人種が生活している。東洋人は狭い地域で固まってコミュニティを形成しているのだから、こうして日常生活において単独で見掛ける機会は中々ない。
 懐かしくもある面差しに、シュウは相乗りの挨拶をすべく口を開きかけた。と、愛想の悪い運転手がハスキーボイスで問い掛けてくる。
「どこまで行くんだ」
「七番街まで」
 タクシーは運転手のぞんざいな口調からは想像出来ない滑らかさで走り出す。
 タイミングを失ったシュウは、結局青年に会釈だけで挨拶を済ませ、過ぎ去るバスターミナルを窓越しに眺める。外気との温度差で曇った窓の隙間から移り行く景色が覗き、それを遮ってバスが対向車線を走って行く。ターミナルで待ち侘びる人々もこれで寒さから解放されるだろう――様々な人種が並んでいた光景を思い返して、シュウは視線を車内に戻した。
 流れては消える街灯に青年の姿が照らされ、白いフリースが黒いシートに浮かぶ。
 彼はシュウから顔を背けて窓の外を眺めていた。先程の笑顔は相乗り相手への挨拶だったのだろう。その証拠に、窓に映る表情はまた無愛想なものに戻っている。この街に住む人間は時に他者のみならず、その街の変容にも無関心だ。
 それを現しているような表情に特に感慨も持つでもなく、シュウは鞄からレポートの束を取り出した。
 ――tell me where you’re going……
 ラジオから軽快なカントリー調のリズムに乗って歌が流れる。
 ――どこに行こうとしているの?
 下らない、と思いながらもシュウはその歌を聴く。
 果たさなければならない目的がある。その為ならどんな努力も苦労も厭わない。力を与えてくれる存在を得た今、ここで立ち止まる訳には行かなかった。自分が故郷で駒にされているのは存分に承知している。ならば、それを覆すだけの力を得ればいいだけの話。証明書を偽造し、学内の記録を改竄し、幾人かの生徒と教師の記憶を擦り替えただけで、事は簡単に進んだ。
 それだけの頭脳が自分にはある。それをシュウは自覚している。そしてそれに見合うだけの成果を上げ、それがあの男の目に止まったのだ。
 ――得るべき知識を全て得るがいい。
 そうすれば望む立場と地位を与えると、男はシュウに約束した。だからこそ与えられる援助はスポーツマンが得る契約金のようなものだ。そして彼らはそれ相応の活躍を求められる。
 そう、男は明確に見返りを求めていた。シュウへの援助はだからこそ成されたものだ。
 そうして歯車は動き出したのだ。少なくはない犠牲を払って。
「――I am going too.」
 知っている曲なのだろうか。ラジオに合わせて掠れた小さな声で青年が歌っている。娯楽を楽しむ時間のないシュウにはその曲が流行りのものであるのかすら解らない。
 最新の映画も流行のテレビ番組も見ている余裕はなかった。勉強に追われる日々は家での余暇の時間も奪う。机にばかり向かい、修士や博士を修める学生の小遣い稼ぎによくあるアルバイト――カレッジが敷いたティーチング制度に必要なレジュメ作成、それを幾つも掛け持ちし、その合間に自分の論文を仕上げる。その為に参考文献が乱雑に積み上げられた机は何ヶ月も整理されないまま、残された僅かなスペースだけがシュウにとって机の意味を成す場所だった。
 ――tell me where you’re going……
 どこに、など決まっている。行く先はひとつしかない。
 自分を――自分達を廃絶した世界への報復。それだけを糧として、シュウはここまで這い上がってきたのだ。誰の力も借りず、他人の思惑すら利用して。
「――I will go with you.」
 青年は歌う、一緒に連れていってと。
 ――tell me where you’re going……
 誰の曲なのだろう。
 青年の声に重なる女性ボーカルの声。鼻にかかかったハイトーンボイスがメロディを奏でている。「ハイウェイをとばし、あなたはまた行ってしまう」と歌う女性と青年の声を聞きながらシュウは窓の外をふと眺める。
 セントラルストリートを抜けて三番街へ。次第に少なくなるショップの数に、辺りの景色が暗くなってゆく。夜も更けたこんな時間にこの辺りで開いているのはパブくらいだ。善良な市民の大半は家でくつろぎの一時を過ごしているか、眠りに就いているかのどちらかでしかない。
 ――I will go with you.
 この青年は、何処に向かおうとしているのだろう。
 ――一緒に連れて行って。
 馬鹿馬鹿しい。他人の事を気にしている暇などないというのに。
 そのフレーズを最後に曲が終わり、間を置かずに男性ディスクジョッキーの声が姦しく流れ出す。ハイテンションな声はシュウには耳障りなものにしか思えない。だが、一般大衆には好まれるであろう軽妙なトークは勢いを増すばかり。
 聴かなければいい、どの道興味はないのだからとシュウはレポートに視線を戻す。意識を遮蔽するのには慣れている。余所に意識を飛ばせばそれだけで、煩わしい音も景色も消え失せるのだ。
 それが幼き日々の環境からきたものなのかはわからない。だが、見たくないものを見ない、或いは聞きたくないものを聞かないという術にシュウは長けていた。
 どれもこれも良く出来ている――次から次へと絶え間なく目を通し、シュウは胸の内で呟く。
 ――だが、それまでだ。
 市販の論文の書き方を准えたような判で括ったレポートに独創性オーソリティは感じられない。起承転結、引用、参考文献……綺麗に纏ってはいる。手堅く、しかし小さく。求められているのは既存の理論の発展、或いは考察ではなく、目新しい切り口――即ち、着眼点であるというのに。
 近頃の学生は楽な道を選びたがり過ぎる。そう嘆いていた教授の顔が浮かぶ。
 入るのは易く、出るのは難し。そう評されるアメリカの大学事情だが、かといって平均的なレベルを維持しているレポートを、着眼点の目新しさがないというだけで弾く訳にもいかない。評価欄にBとCを羅列しながら、これでは――とシュウは溜息を洩らした。どうやら、優秀な生徒がいれば研究室へ招聘しようと目論んでいる教授の思惑は叶えられそうにない。
 シュウは小さく溜息を洩らして、まだ目を通していないレポートの残り半分を鞄に仕舞った。それらもどうせ似たようなものばかりに違いない。学士、修士、その獲得だけを目指すならそのレベルでいいのだから。
 もうじき七番街だ。
 窓の外の景色は更に寂しさを増していた。灯りが消えた部屋が大半の、今にも朽ちそうなアパートが建ち並ぶ区画は人通りのない通りの片隅では野犬がゴミ箱を漁り、その奥の路地裏ではホームレスが寒さに凍えるこの時期にダンボールを被ろうともせず着の身着のままで眠っている。どれもこの場所では見慣れた光景で、だからこそ平穏であるとも言える。中産階級の人間が住まう地区であればもっと整然としているものであるし、上流階級の人間が住まう地区など言わずもがな。
 貧困の国とも言われるこの国で、国民の大多数を占めるのは労働者階級ブルーカラーだ。安定した就労を得られない者も多い。
 そういった人間が住まう場所が、ここ七番街だった。
 残りのレポートは明日目を通そう――シュウは近付く目的地に鞄を引き寄せる。
「――着いたぜ」
 ひっそりと静まり返ったダウンタウンの比較的一般住宅街に近い一角で、タクシーは停車する。
 今日の道は空いていたようだ。腕時計をちらりと見遣ってシュウは運転手が口にした金額を支払う。彼は何処まで行くのだろう――最後にちらと車内を覗けば、隣りに座っていた青年は窓を見詰めたまま、こちらを振り返る素振りも見せない。
 ずっと外の景色を眺めていたのだろうか。
 会釈さえない同乗者に挨拶は無粋だ。釣りはチップと運転手に押し付けて、シュウはタクシーを降りると再び冷えた外気に身を晒す。
 青年は扉が閉じても尚こちらを見る気配もないままに、乗り合いと同様にゆっくりと滑り出したタクシーが曲がり角の向こうに消える。
 凍える寒さは今冬に入って一番の冷え込みに感じられた。
 夜空を見上げれば工場の煙突から吐き出される煙が燻っている。二十四時間フル稼働の工場は、朝も昼も夜も延々煙を吐き出し、一部の良識的な人間ヤッピーの抗議活動の的になっている。その操業こそが彼らの日常生活を支えているというのに。
 とは云え、都会の空を厚く覆うスモッグに排煙が重なっては星も月もけぶってしまう。霞む夜空は、人間が自然を捨てて繁栄を得た代償であっても美しいものではない。
「オリオン――」
 薄く瞬く星座を見付けてシュウは呟いた。
 毎日のように目にする星座は、いつの間にか心に刻まれるまでに至った。中央の三ツ星は特に強く輝いているようにも見え、その力強さは疲れた体に明日を生き抜く鋭気を与えてくれる。
 夜空に瞬く無数の星々――……それこそが、憧れ。そして、未来。
 ――シュウは歩き出した。
 目の前の仮の住まいであるアパートメントに向けて歩を進める。まだ酔いは醒めていないらしく、それどころか車中で細かい作業をしたものだからか、よりいっそう増した感じさえする。かといって時刻も時刻。その上連れもない一人暮らしでは誰に頼ることも出来ない。
 重い体を引き摺るようにシュウは歩く。
 外装は赤褐色のレンガ造りとダウンタウンの建造物にしては洒落ている。一ヶ月の家賃もこの辺りでは高級物件の分類に入るだろう。学費や生活費は、教材費や資料に掛かる費用を除いてあの男が一切合切持ってくれている。治安の悪いダウンタウンに住むのは外国人にはどうかと――特に東洋人系である自分には厳しい場所だと言われたが、それに頼りきる気にはなれなかった。
 借りは最小限でいい。下手に増えれば身動きが取れなくなる。
 だからこそ、教材費や資料代も持つと言った男の申し出だけは頑なに固辞したのだ。
 見返りを求める相手に、どうして多大な借りを作れよう。シュウの目的は、男の目的と重なるものではないのだ。それさえも踏み台にして、その先を目指す。それは遠大な目的を達成する為に経る段階のひとつでしかない。
 そのアパートメントのステップを昇り、ドアを潜る。シュウがこじんまりとしたホールに設置された集合郵便受けポストを覗くと、数通のダイレクトメールに紛れて見慣れた文字で宛名が書かれている手紙があった。
 他の大学でセミナーに参加した時の講師はその世界では名の知られた識者だった。幾つかの質問をしただけのシュウに、向こうがセミナー終了後に声を掛けてきた。専門の学生であるのか、どこの研究室にいるのか――彼は興味を持ったらしい。
 シュウがいずれはその分野も修めたいのだと知ると、彼はそれまで教授しようと申し出てきた。
 渡りに船である。コネクションは幾つ持っていても損はない。
 ――限られた時間しかない自分には。
 間に幾つもの州を挟んでは、会って教えを乞う訳にもいかず、しかも相手は多忙な教授職。こちらも幾つもの研究室に身を置く学生。日々電話で語り合う訳にも行かず、かくて遠回りな往復書簡での師弟関係が始まる事になった。それでも、頻繁にこうして書簡を交わしていけるのだから、向こうは相当シュウに期待をしているらしい。
 薄い水色の封筒に無駄な装飾は一切ない。定型的な大きさといい、彼は事務的な形の封筒を好む。前回の手紙はクリーム地の封筒だった。最初から暫くの間は薄いグレーと見事なまでの事務用封筒だった。あまりにも事務的過ぎると冗談交じりで揶揄されたのが気になったのか、それ以降、彼は色だけは変えてくるようになった。アメリカ人らしい切り返し方だ。
 その封筒を鞄に収めて奥に向かう。
 最上階にある自分の部屋までは結構な距離を上らなければならない。足取り重く、壁にもたれるようにして、シュウは階段を上った。ここにベットがあれば、そのまま眠ってしまいたい――それ程に倦んだ体がもどかしい。
 一段、また一段とそれでも階段を上るシュウの耳に、他にも遅い帰宅の人間がいるのだろう。離れた階下を上がってくる足音が耳に届く。ゆっくりな足取りはシュウと同じく、パブやクラブで飲んできたような拍子を刻みつつ追ってくる。
 シュウがようやく最上階のフロアに出たのは、タクシーを降りてから10分後だった。普段であれば5分とかからずに上りきれる辺りに酔いの回りが知れる。ドアが向かい合わせに挟み込む形になる通路に辿り着いて、シュウは、ほう、と一息吐く間に再び時計に目を走らせ時刻を確認した。
 分単位のスケジュールが、シュウに時間をこまめに確認させる癖を付けた。セミナー、ティーチング、ディスカッション……研究や論文作成に費やす時間を含めれば、寸暇を惜しんでも手が足りない。一分一秒が大事な日々、しかもそれらは手を抜く事を許されない必須のものばかりである。凡百の学者では駄目なのだ。誰よりも高い頂きに辿り着く存在にならなければ、この生活そのものに意味がない。
 独りで立てるだけの強さと頭脳、それこそが、シュウがこの先生き抜く為に必要な力だ。
 ――カタン……。
 ようやく辿り着いた部屋のドアに手を付いて、シュウはそのまま凭れかかった。階段を上ったからか、一気に酔いが回ってきたように酷い眩暈が襲う。そこに近付いてくる足音は同じ階の住人か。先程後を追って来ていた人物のものでもあるだろう。
 顔見知りならドアを開けて貰おうと上着を探り、ポケットの上から触った掌に確かな鍵の手応えに安堵しつつ、シュウはその住人の到来を待った。
 後は鍵がここにある、と伝えるだけでいい。
 長くも短い時間が過ぎ――近付く足音が側で止む。相手もこの様子に気付いたのだろうとシュウが顔を向けると、
「あなたは……」
 その視線の先に立っていたのは、明らかにこのアパートメントの住人とは呼べない人間で、思いがけないにも限度ある出会いに言葉を失う。
「もしかして困ってるんじゃないかと思ってさ」
 白いフリースに黒いマフラーが、決して明るくはない通路の電灯に照らされている。タクシーの隣りに座っていた青年は、乗車したまま去った筈だ。閉まるドアと走り去るタクシーは確かにこの目に収めたというのに。
 青年はこの短時間でどこをどうやってここまで来たのだろう。
 シュウが足音を聞いたのは階段を上り始めて程なくだった――直後にタクシーを降りた? そんな筈はない。直線道路を角折れるまで停車せずにタクシーは走って行った。それとも角折れた場所で降りて、そこから走って追いかけてきたとでもいうのか? それにしては時間が早過ぎるしそれらしい足音も聞いていない――不可思議な現象に困惑するシュウの顔を覗き込む青年は、最初に見せたあの人懐っこい笑顔を浮かべて言った。
「なあ、助けてやるついでに俺をしばらくここに置いてくれないか」
 綺麗な日本語だ。
 この地で聞けるとは思わなかった響きを持つ言葉は――懐かしくも、苦い。
「……何を突然言いだすのですか」
「やっぱり通じた」
 青年はシュウの腕を取った。頭半分低い体が腕を背に回したかと思うと上着のポケットを探る。鍵の在り処を知っている風な行動は、シュウの習慣を把握しているようにも取れる程に自然だ。
「そうだと思ったんだ。俺、日本語しか話せないから途方に暮れてたんだよ。ずっとこうしてなきゃいけないのかって」
「タクシーはいつ、降りたのですか」
 お前と殆ど一緒だよ――その言葉に、そんな筈はない。そう思いながらも、青年が鍵を差し込む手元をシュウは黙って眺めていた。華奢な体は自分よりも一回りは細い。それが楽々と自分を担いでドアを開けようとしている。
「ここまでで結構です」
 手を振り払って玄関のシューズケースに腕を付き、シュウはドアノブに手を掛けた。
 他人に構っていられる生活ではないのだ。
 どんな事情があるかは知らないが、所詮は大都会で擦れ違っただけの赤の他人。どこにでも進出する東洋人は、この街にも吐いて捨てる程いる。相対的には少数でも絶対数ではかなりの数に及ぶのだ。その相手にいちいち感傷を感じていたら際限がない。
「あなたはあなたに手を差し伸べてくれる場所に行けばいい。私はあなたに構っていられる余裕はありません」
 施しを受けたければ教会へ。援助を受けたければ大使館へ。困窮する外国人を救う施設は幾らでもある。そうシュウが告げると、青年は大きな瞳を瞬かせ、
「少しの間でいいんだ」
 その表情はどこか寂しげに映る。
 ――tell me were you going……
 タクシーで青年が歌っていた歌。私も一緒に連れていって、という言葉がシュウの耳に、その窓を眺めていた姿が、瞼にリフレインする。
 日本語しか話せないと言う割には、流暢に英語詞を歌ってみせた青年。tell me were you going. ――どこに、誰と一緒に行こうとしていたのだろう。誰に求めていたのだろう。確かにシュウは、もうひとつの故国の面影を持つ青年に一時的に関心を寄せた。けれどもそれは、一瞬の邂逅だったからであって、その先も、となれば話は違ってくる。厄介事や面倒をこれ以上抱え込んでは、些細な時間を惜しむシュウの許容範囲を越える事態になりかねない。
 それに、その不整合余りある態度や様子に警戒心を抱かずにいられるまでに、シュウは寛大にはなれなかった。
「労働者センターで夜を明かしなさい。そこの角を曲がった先の大通りの向かいにあります。寒さも凌げて食事も口にできる――こんな環境はそうはないでしょう」
「見知らぬ外人とかよ。言葉も通じないのに」
 青年の身勝手な台詞と態度にいつまでも付き合ってはいられない。
 鞄の中に詰まった資料を思い出してシュウはドアを閉めた。青年の困窮した表情がその向こう側に消える。シュウはそうして、一人残された玄関で薄いドアの向こうの様子をしばし窺う。
 物音ひとつしない静寂が続く。
 青年は立ち去ったのか、それとも。
 所詮は他人事だ――鍵とチェーンを確認してシュウは部屋に上がった。暗い廊下をずるようにして歩き、今では邪魔な遮蔽物でしかないドアを開ける。木枠に色違いの硝子が嵌め込まれたチープなドアが軋んだ音を低く立てつつ開く。
「……?」
 薄明かり、リビングの端から。
 スタンドライトの脇に滅多に使われないカウチが置かれている。そこに張られた布地の極彩色が白色灯の明かりに照らし出されて、嫌が応にも目に入る。酔いに回る視界には強烈な刺激だ。
 明かりを消すのを忘れたのだろうか。酔いもあって、上手く思い出せない。そうでなくとも毎朝慌しく、何かに追い立てられるように家を出るような生活を送っている。覚えていなくとも当然、それよりも――シュウはよろけながらカウチに倒れ込み、鞄を床に落とすと目を閉じた。
 ――オリオン。
 瞼の裏に浮かぶスタンドライトの光が脳裏に描いた星空に重なる。淡い光は蒼天で一際強い存在感を放つ星座となって瞬いた。ひとつひとつの光は脆弱でも、神話に形を借りれば鮮烈な印象を残せる宿星となる。
 天に弓引く勇者たれ――跳ね上がる動悸に息荒くカウチに身を沈めて、疲れた身体をようやく休める場を得たシュウは……眠りに……。
「こんなところで寝たら風邪、引くぜ」
 幻聴、ではなかった。
 確かに耳に届いた声に、即座に目も醒めようというものだ。シュウは目を開き、そこに紛れもなく存在している現実を目の当たりにして、またも言葉を失った。理屈と理論では教授とも渡り合える滑らかな舌を持っているというのに、立て続けの不可解な現象如きにそれが奪われてしまったのか。言葉が上手く紡げないまま、それでも気力を振り絞ってシュウは問う。
「あなたは、どうして……」
「ベットで寝ろよ。そっちが寝室だろ」
 呆気に取られるシュウの目の前で、
「それとも、俺がそっちで寝ようか」
 先程廊下に締め出した筈の青年は、呆れた風な微笑みを浮かべている。