知恵の実

 ピィピィと甲高く、鳥たちが囀る声が頭上から降ってくる。露を含んだ草花を踏みしだきながら進む昼なお薄暗い森の中。程良く繁った木々の隙間から差し込む黄金色の光が、シュウがこれから往く道を照らし出していた。
 さして広くもないこの森にシュウが足を踏み入れようと思ったのは、通りがかりに思い出された記憶の所為だった。
 二ヶ月ほど前、遺跡を求めて入り込んだシュウを迎え出た一本の巨木。人の手の入らない森に生る果実というものは得てして酸味が強いものだったが、その巨木にっていた果実は事情が異なった。まるで良く出来た砂糖菓子を食べているかのような甘さ。その美味しさは動物たちも認めるところらしい。シュウがひとつ果実を齧り終えるまでに、彼らは何度も巨木の前に姿を現しては果実を手に入れて去って行った。
 あの果実は年中っているものなのだろうか?
 それは滅多ことでは日常的な事柄に興味を喚起されないシュウにしては、珍しくも純粋な好奇心の発露だった。地上世界の果樹と異なり、地底世界の果樹には、一年を通して実をつけ続けるものも多い。これまでシュウの目に入ることのなかった果実の性質がどちらに属するものであるのか。それを知ったところでその知識は決してシュウが有している数多の学術的な知識の足しとなることはなかったが、知ることで日常生活が豊かになるたぐいの知識のひとつではあった。
 日々施設に篭って研究を続けるのが生き甲斐のシュウであっても、気晴らしを求めて外の世界に足を運ぶことはあるのだ。その気紛れな散策の目的のひとつとするのに相応しい果実。疲弊した脳に与える栄養にこれ以上の果実があるだろうか? その誘惑にシュウは勝てなかった。だからこそ、まるで花の蜜に吸い寄せられる蜜蜂のようだ――と思いながらも、シュウは森の中へと再び足を踏み入れて行ったのだ。
 旧約聖書に記された知恵の実とは、もしかするとああいった果実であったのやも知れない。
 あらゆる生物が求めずにいられない味を持つ果実は味を知ったが最後。他の何を差し置いてでも求めずにいられなくなる。あの巨木に寄り集まった動物たちは、あの果実の味を覚えてしまったからこそ、人間たるシュウに警戒心を抱くことをしなくなってしまった。これが堕落でなければ何であろうか? そこには捕食する、されるといった関係は存在しない。彼らは互いの存在を認識していないかのように一目散に果実を手に取った。そして脇目もふらずにそれを貪り食った。
 その光景はある種の楽園でもあり、ある種の地獄でもある。そう、娯楽の少ない動物にとって、食というものは心を狂わせる知恵の実足り得るのだ。
 幸いにして、人間たるシュウはそれ以上のグルメを知ってしまっている。恐らく、舌の肥えた生き物である人間にとってのあの果実は、ちょっとした幸運に恵まれた程度の食材でしかないのだろう。それでも、シュウが巨木の元へ向かわずにいられなかったのは、調味料や香辛料で過度に味を付けられた料理の数々に飽きを感じていたからに他ならない。
 たった一度の堕落がこんなにもシュウの心を駆り立てているのは、あるがままでも甘い自然の恵みたる果実が、その柔らかい味でシュウの肥えた舌を癒してくれたからでもあるのだろう。
 時に巨木に向かうと思しき動物たちと並んで道を往きながら、シュウは先を急いだ。草露を含んだ衣装の裾が、そろそろ重みを感じさせるようになってきていた。確か、この辺り――と、シュウが思った矢先、行き先を薄く塞いでいた木々が開けた。
 太陽の陽射しが強く感じられる空間の中央で、巨木の根元に寄り集う動物たち。地面に落ちた果実を貪り食う彼らの傍らに、見慣れたアイスブルーのジャケットを羽織った青年が立っている。
 どうやら青年はシュウが声をかけるより先に、シュウの存在に気付いたようだ。マサキ=アンドー。魔装機神操者の彼は、それまで足元にて果実を貪っている二匹の使い魔に落としていた視線をシュウに向けると、嫌な偶然もあったもんだな――と嫌気を隠さない表情で言葉を吐いた。
「あなたこそ。どういった用事でこんな森の奥にまで?」
「聞くまでもねえだろ。迷ったんだよ」
 一体、いつになれば人並みの方向感覚を身に付けられたものか。マサキに限っては良くある話に、シュウは溜息を洩らさずにいられなかった。ナビゲーターシステムがあろうともお構いなし。使い魔もろとも道に迷ってみせる彼は、その所為で要らぬ厄介事に首を突っ込む羽目になりがちだ。
「何処に向かうつもりでいたのです」
「確かこの辺りに川があったと思ったんだけどな……」
「川はもっと西ですよ」
「西ねえ……西ってこっちだったっけ?」
 と、北を指差してみせるマサキにシュウが物を云わずにいれば、それで答えを知ったようだ。
「まあ、いいか。今となっちゃこの森から出られるかの方が大事だ」
 はあ。と、大仰に溜息を吐いた主人に、二匹の使い魔が耳聡く顔を上げる。道案内してもらえばいいのニャ! 至極当然と口にした二匹の使い魔は、自分たちの力で主人の受難を解決する気は最早ないのだろう。楽観の度合いが窺える表情でそう云い切ると、次いでシュウを見上げて、「貴様の使い魔をボロ雑巾にされたくニャきゃ、おいらたちの云うことを聞くのニャ」と、強気にも云い切ってみせた。
「流石はあなたの使い魔。主人に似て口の悪い」
「煩えな。ところでお前、こんな所に何をしに来たんだよ」
「この果実を食べに来たのですよ」
「へえ。お前でもそんなことを考えるんだな」
 シュウは巨木の枝にたわわに実っている果実をもいだ。そして、食べてみますか――と、蜜を滲ませている果実をマサキに手渡した。どうやら彼は二匹の使い魔が果実を貪るのをただ見ていただけだったようだ。素直にシュウから果実を受け取ったマサキは、しげしげとその姿を眺めながら、
「食えるんだろうな」
「今更そんなことを口にするなど、あなたの使い魔に対して失礼ですよ」
「動物ってのはある意味何でも食うだろ」
 云って、くんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。鼻を衝いた匂いに少なくとも腐ってはいないと判断したようだ。次の瞬間、彼は意を決した様子でオレンジ色の皮ごと果実を噛むと、目を瞠って驚きに満ちた声を上げた。
「何だ、これ。果物らしい味がしねえ。テュッティが作るケーキみたいな味がしやがる」
 続けてもうひと口と果実を噛んだマサキの手からその果実を取り上げたシュウは、弾力性のある赤い果肉を覗かせている断面に口を付けた。甘い。良く出来た砂糖菓子のような上品な甘さは健在だったが、二ヶ月前に口にした時よりは舌が慣れたからだろう。そこまでの感動を覚えることはない。
 シュウは齧った果実をマサキの手に戻してやりながら、クック……と嗤った。
 所詮、人間の舌などこの程度のものであるのだ。調味料と香辛料に慣れた舌は、思い通りの味を付ける贅沢を知ってしまっていたからこそ、新たな味にもさして時間をかけずに順応してしまう。
 シュウは自身が果実に群がる動物たちのようにならなかったことに内心安堵しつつも、ここに辿り着くまでの間に膨らみ続けた欲望が色褪せてしまったことに失望せずにいられなかった。そしてだからこそ、続けてこう疑問を抱いだ。では、果たして自分は何を口にすれば、この巨木周りにいる動物たちのように、無心になれるまでの満足を得られるのだろう?
「……あなたには感謝をしなければなりませんね、マサキ」
「何だよ、突然」
「私にとっての知恵の実とは、必ずしも果実の形をしていないとわかったからですよ」
「はあ? 意味がわからねえことを云うんじゃねえよ」
 そして、シュウに齧られた果実に口を付けたマサキに、微かな満足感を得たシュウは、いつか自身にとっての知恵の実に辿り着けることを願いながら、「ところで森から出る道案内は要らないのですか?」その初手ともなる言葉を吐いた。