硝子の向こう側

 ――私の言葉が消えた。

 発した言葉が、声にならずに宙に溶けていくのを眺めながらシュウは思った。
 窓際の席に身体を落ち着けた喫茶店。薄暗い店内から臨む世界は眩く映る。軒先に並べられた商品を品定めする中年女性……犬の散歩というより犬に散歩させられている様子の初老の男性……大通りの中央を晴れがましく、まるで我が世の春とばかりに闊歩する若い男女……穏やかに降り注ぐ日差しに照らし出されたラングラン城下町のありふれた光景を何とはなしに眺めながら、シュウはフレーバーが香る紅茶を嗜んでいた。
 その中に見知った少年の姿を見たような気がしたのだ。
 不意を突いて視界の端を過ぎって行った少年の姿に、シュウは自分でも思いがけず、その名を発してしまっていた。
 ――マサキ。
 囁くよりも明瞭りと。けれども、呟くよりも密やかに。
 発してしまってから、届く筈のない声にひとり苦笑する。彼を呼び止めたところで、話すべきことなど何もない。わかっていながら発作的にその名を口にしてしまった自分の愚かさ。未だ寛容に受け止められずにいる感情に、シュウは自らの言葉が消えてしまえばいいのにと思った。
 何故、こうも自分は彼を気にかけずにいられないのだろう。
 始まりは、ただ気に食わなかっただけだった。シュウが焦がれるほどに手に入れたいと望み、その為に努力を重ねてきた風の魔装機神に選ばれた少年。彼はラングランに召喚されてからというもの、世界の全てが自分に微笑みかけているように振舞い続けた。
 無理もない。望む望まざると手に入る立場は、どれだけ根拠のない自信を彼に与えたことだろう。
 未成熟な少年に与えるにしては、過分な名誉。その責を彼に問うのは間違っている。わかっているからこそ、シュウは彼の存在を歯牙にもかけないことを選んだ。名誉に与っているのは自分とて同じ。剣技の才に魔術の才。十指に及ぶ博士号。それは寸暇を惜しんで努力に励んだ結果であるのだ。
 だのに――……。
 無視を決め込み切れない激しさで自分に迫ってくる少年に、いつしかその決意は脆くも崩れ去ってしまっていた。今となってはヴォルクルスに支配されていた自分が懐かしくさえもある。あの頃の冷徹さを取り戻せればと思うこともあれど、進んでしまった時間は取り戻せないのだ。
 シュウは何を眺めるでもなく、窓の外に視線を投げかけ続けた。
 やがて目の前の大通りに再び彼が姿を現す。どうやら道に迷ったようだ。辺りを見回しながら、自分の往く道を探している様子の彼の姿に、シュウの口元は自然と綻んでいた。
 ふと、人垣を越えて彼と目が合った。瞬間、彼は眉を顰めたものの、他に頼るべきものを持たないからだろう。人波を真っ直ぐに突っ切ってシュウの許に歩んでくると、硝子越し。何事か言葉を吐いた。
 うっすらと聞こえてくる言葉からするに、どうやら彼は城下町の中央にある広場に出たいようだ。それは今彼が戻って来た道の先にあった筈なのだが、どこをどうやって気付かぬまま通り過ぎてしまったものか。「あなたが今来た道を行った先ですよ、マサキ」シュウが手で指し示しながら道を教えてみれば、絶望的に顔を歪ませて頭を垂れる。
「ああ、もう面倒臭え。どれだけ歩いたんだよ、全く……」
 そう声を上げた彼の姿が視界から消える。相変わらずの傍若無人な振舞いに、とはいえ苦々しさを感じるほどでもない。彼はシュウに素直に礼を述べるのを良しと出来ない性格なのだ。そんな少年の幼さや意地っ張りな性格が、いつの間にか微笑ましく感じられるまでに、シュウは彼に対する態度を軟化させてしまっていた。
 ――あの様子ではいずれまた、この通りに姿を現すことでしょうね。
 人がうつろい変わろうとも、繰り広げられる日常は変わらないものだ。彼の姿が消えた窓の外を、変わらずに眺め続けながら、シュウはまたひと口とティーカップに口を付けた。
「少し付き合えよ。すっかり足が棒だ」
 聞き間違えようのない声が、身近に響いてくる。思いがけず降ってきた声に、シュウは内心の驚きを悟られぬように、努めて冷静を保ちながら声のした方向を振り仰ぐ。
 むっつりと口を横に結んだ表情。どうやら彼がシュウの目の前から姿を消したのは、喫茶店にひとときの安らぎを求めてのことであったらしい……歩き回って邪魔になったのだろう。脱いだジャケットを肩に掛けて、シュウの返事も待たずに向かいの席に腰を下ろした少年は、彼には味の違いがわからないフレーバーばかりのメニューに目を通して、案の定。嫌気を隠そうともしない表情で、注文を聞きにきたウエイトレスに、仕方ないといった様子でオレンジジュースと告げた。
「どのくらい迷っているのです」
「三十分ぐらいじゃないか? シロとクロともはぐれちまうしよ。あいつら主人にに付いて来るって簡単なことも出来ねえんだな」
「あなたの使い魔ですからね。主人に似て迷い易い」
「だったらお前の使い魔は何なんだよ。口喧しくて仕方がねえ」
「私はこれでも自分を慎むということを知っていますからね。きっと、あなたには表裏がないのでしょう。でなければ無意識の産物たる使い魔が、どうしてあそこまで現実のあなたに似たものか」
 事実を述べただけのシュウの言葉を、どうやら嫌味と受け止めたようだ。うるせえよ、と被せるように言葉を吐いて、彼は腕を組むと窓の外。流れゆく人波に視線を向けた。
「何を見てたんだ」
「取り立てて何かを見ていた訳ではありませんよ」
「本当かよ。その割には直ぐに目が合った気がするけどな」
「あなたの姿は目を惹きますからね。いかにも地上人、といった風体ですし」
「そうか? こっちに来て随分になる。結構、服装とかも馴染んだ気がするけどな」
「そうは云っても、元々の容姿はそう簡単に変えられるものでは――」
 シュウがそこまで言葉を吐いた瞬間、「お待たせしました」と、テーブルに届けられるオレンジジュース。落ち着いた雰囲気の喫茶店に似つかわしいクラッシックな服装のウエイトレスは、彼の目の前に静かにグラスを置くと、軽く黙礼をして去って行った。
「普通の喫茶店のソフトドリンクより値が張るとは思ったんだよ」
 細く背の高いグラス。搾りたてのオレンジの匂いがぷんと香る。
「ちまちま飲むのは好きじゃないんだけどな……」
 女性的ですらあるシルエットを目の当たりにした彼は、よもやジュース一杯で居住まいを正さなければならないような羽目に陥るとは思ってもいなかったのだろう。磨き抜かれたグラスを前に、どう口を付けたものか悩む様子を見せた。
「気にせず好きに飲めばいいでしょうに」
「このグラスに直接、口を付けるのは無理だろ」
 がさつが服を着て歩いているように見えても、場違いな自分を恥じる程度の繊細さは持ち合わせているようだ。ややあって、思い余った様子でグラスにストローを挿した彼に、「そこまで決心の要ることですか」シュウは声を殺して笑った。
「てめえが居る店って時点で警戒すべきだった。不似合いな店に足を踏み入れるもんじゃねえ」
 そういった少年の不均衡アンバランスな性格を、シュウは思いのほか気に入っていたりしたものだ。
 がさつなだけではいずれ自滅する。戦場とはそういった場所だ。生き抜く為には小心さも必要になる。これ以上進んではならない場所で、ブレーキを踏み抜くような人間に微笑みかけるのは死神だけだ。
 そもそも少年がそういった性格であったなら、シュウは無視を決め込みはしなかっただろう。風の魔装機神に選ばれるからには、選ばれるだけの理由があると思っていたいシュウにとって、その操者の性格は重要な因子だ。不足があれば容赦なく叩き潰す……そのぐらいにシュウはあの白亜の大鳳に思い入れがある。
 そういった意味で彼は存分にシュウの目に適っていた。迷い、悩み、後ろに下がることもあれど、最後に残された希望を諦めることをしない。一朝一夕に前に進まない少年の成長に、もどかしく感じることもあるにはあったが、それこそが人間のかくあるべき姿でもある。
 ――自分のように感情を外に置いて、効率や合理性だけで物事を判じる人間ばかりでは、世に隆盛はないもの……
 いつしか彼の悩ましい表情は和らぎ、ゆっくりと味わうようにオレンジジュースを啜るまでになっていた。そのころころと移り変わりの激しい表情に、黙り込んでいるのもとシュウは物思いを止めて彼に向き直る。
「文句を云っていた割には満足そうな顔をしていますが」
「値が張るだけはあるな。こんなオレンジジュースは初めて飲んだってぐらいには美味い」
 そして彼はふと、シュウの目の前に置かれているティーカップに目を留めた。うーん、と小さく唸る。そのままテーブルの端に置きっ放しになっていたメニューを取り上げると、思い煩う様子でそこに目を滑らせ始めた。
「どうかしましたか、マサキ」
「いや、だったら紅茶も味が違うのかな、ってさ……ああでも、丸々一杯飲みたいってほどじゃねえな」
「また次回の楽しみに取っておけば如何です。ここは静かで落ち着いてて、ひとりで過ごすのにとても適している店ですよ。せっつくように動き回るウエイトレスやウエイターもいない。何か考え事をしたい時などに利用してみては」
「そうは云ってもな……ひとりで入るのには敷居が高い店だって気付いちまったしな……」
 そう云うと頬杖を付く。空いた手の指先が、それ、と僅かな量を残すのみとなったティーカップに向いた。
「交換しないか」
「そこまでして飲みたいものですか」
 予想だにしていなかった彼の提案に、シュウは驚きを禁じ得なかった。シュウの目に映る彼は、傍若無人に振舞っていようとも繊細さを併せ持つ少年だ。
 彼の自分の所有物に対する縄張り意識は強い方だろう。直接的に肌に触れない物を共有することすら避けてみせる。ましてや他人が口を付けたカップだ。どうしてわざわざその味覚を満たす為に、交換を申し出ると思うだろう。
「またここに来れる保証もないって気付いちまったしな」
 確かに、とシュウは頷いた。シュウにとって通い慣れた店は、彼からすれば迷い込んだ店でしかない。だからといって――。シュウは人知れず溜息を洩らした。潔癖なきらいがあるシュウにとって、カップとグラスの交換は、例え相手が彼であろうとも快く受け入れられる提案ではなかった。だからこそ、どうにかしてその執着心を逸らすべく、マサキと言葉を絞り出す。
 その先の言葉がシュウの耳に届くことはなかった。
 音の消えた世界。自らが口にしている言葉が、発した先から宙に溶けてゆく。だのに彼の発する言葉は耳に響いて限りない。私の言葉だけが消えた。動揺を押し隠しながら、シュウは冷静に自分の置かれている状況を分析し始めた。触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚と五感を順に探り、その感度に不足を覚えたシュウはひとつの知見を得た。
 ――恐らく、これは夢なのだ。
 背中に触れている喫茶店のソファの背もたれの感触に、二重写しになるかのようにベッドのシーツの感触が重なっている。そろそろ脳が覚醒を始めようとしているのだ。
 試しにシュウは自らの意思で手足を動かそうとしてみた。
 案の定、思うようには動かせない。
 今視界を共有している喫茶店にいる方のシュウは、目の前の少年にティーカップを勧めている。夢など所詮は無意識の再構築でしかない。わかってはいても、自らの思い通りにならない世界に、シュウは忸怩たる思いを募らせた。
 その思いの強さが、どうやらシュウの肉体の目覚めを早めたようだった。徐々に脳に描き出される夢の世界が薄暗く染まる。古いフィルムを上映しているかのような、隅の欠けた映像。それはティーカップとグラスの交換を映し出したところで不意に途切れた。
「夢よりも現実であなたに会いたいものですよ、マサキ」
 夢から覚める直前。訳もなく胸を占める寂しさに、シュウはそう小さく呟いていた。

あなたに書いて欲しい物語
ゆりさんには「私の言葉が消えた」で始まって、「そう小さく呟いた」で終わる物語を書いて欲しいです。夢のような話だと嬉しいです。