山道を続いている靴跡を慎重に追っていた。
二匹の使い魔の話では、主人たるマサキとこの山ではぐれてから、既に一日が経過しているのだそうだ。今朝方、家に飛び込んで来た二匹の使い魔にせっつかれるようにしてグランゾンに乗り込んだシュウは、西だった、いや東だった、と騒々しくも当てにならないナビゲートを無視して、彼らが話して聞かせてきた山の特徴から、自身の知識だけを頼りにこの地に辿り着いた。
クンバカルナ。ラングラン北西部にある標高800メートルほどのその山は、地元住民には神の棲む山と呼ばれて畏れられていた。眉唾物の伝承ではあったが、六万年前の巨人族の時代に、創造神ギゾース=グラギオスが戯れに矛を突き立てた土地が山となったものであるらしい。過去には山道が整えられ、物見遊山の観光客を迎え入れていたこともあったようだが、不審な事故が相次いだことから閉山。領主によって禁足地とされたクンバカルナに、地元住民たちは神の怒りに触れたのだとまことしやかに囁き合った。そうして地元住民たちが立ち入らなくなったクンバカルナであったが、それでも遊び半分で山に登ろうとする登山者が後を絶たなかったことから、数百年ほど前。時の領主は彼らを立ち入りを防ぐ為に、クンバカルナに強固な結界を何重にも張ったのだという。
そういったいわくのある山にマサキが足を踏み入れることとなったのは、サイバスターでこの地域を巡行中、そうでなくともマサキのプラーナで挙動が不安定な精霊レーダーが、他の計器をも巻き込む形で更にその挙動を不安定なものとしてしまったからだった。原因を突き止めなければ王都への帰還すらままならない状況下。決してサイバスターのシステムに明るくないマサキは、藁にも縋る思いで付近に魔装機神に影響を及ぼしたエネルギーの正体についての聞き込みを行ったのだそうだ。そこで前述の伝承を耳にした結果、興味本位でクンバカルナに足を踏み入れていったのだという。
無論、マサキのことだ。好奇心だけでクンバカルナに足を踏み入れたのではないだろう。
創造神ギゾース=グラギオス。ラ・ギアス世界の現実的な脅威である三柱神の名を耳にしたマサキが、クンバカルナに調査の必要性を感じたことは想像に難くない。そこで計画を練って後程とならず、発作的に調査に向ってしまうところがマサキがマサキである所以であるのだが、サイバスターがまともに操縦できない状況下。理より実を取ろうと焦ってしまったのも無理なきことではある。
かくてマサキとともにクンバルナに足を踏み入れた二匹の使い魔だったが、それもまた結界の効果であったのか。それともそれこそがマサキの使い魔である証左であるのか。早々に主人とはぐれた二匹の使い魔は、迷いに迷った挙句、這う這うの体で山を抜けると、サイバスターのコントロールルームで半日ほど。主人たるマサキの帰還を待ち続けた。
日を跨いでも戻る気配のないマサキにようやく誰かを頼ろうと決心した二匹の使い魔は、計器が役に立たなくなったサイバスターを勘だけで動かして、どうにかクンバカルナの影響下から逃れると、その足でシュウの許を訪れたらしい。何故、魔装機の操者たちを頼らなかったのかとシュウが尋ねると、二匹の使い魔胸を張ってこう答えた。だってあいつらじゃ、一緒に迷いかねないんだニャ。確かに呪術とも魔術ともつかない結界が相手とあっては、魔力を持たない魔装機操者である。立ち向かえもしなければ、処理のしようもない。
成程、確かに。シュウはそう頷いて、二匹の使い魔が正常な判断力を有していたことに安堵した。
そして今に至る。
幾重にも張り巡らされた強固な結界ですらも通り抜けてしまうマサキのプラーナの力に驚かされながらも、その痕跡を求めて。シュウは自らに結界の力が及ばないよう呪術を施すと、数百年に渡って禁足地とされている神の棲む山へと足を踏み入れた。
クンバカルナの頂へと続く山道の入り口は、うっすらと漂う霧と石を積み上げたバリケードで塞がれていた。シュウはそれを力任せに乗り越えて、荒れ果てた山道へと降り立った。長く放置されていただけあって、草がぼうぼうに生い茂ってしまっている。少しでも注意を怠れば獣道へと迷い込みかねない有り様に、山登りは嫌いなのですがね――。そう呟いて、シュウは履き慣れない登山靴で草を踏みしめながら、マサキの靴跡と思しき足跡を追いかけ始めた。
残存するマサキのプラーナを感知出来ればそれに越したことはないが、既に一日が経過しているからかそういった力は感じられない。それだけではない。マサキ本人のプラーナも感じ取れない距離にあるようだ。どうやらクンバカルナの神はシュウに楽をさせたくないらしい。シュウは仕方ないと霧の中、先へと進んだ。
――丸一日もあれば、如何に方向音痴のマサキとはいえ、山の頂には辿り着けているとは思うが。さて……
きっと迷い易いマサキのことだ。山道に沿って歩いて行ったとは限らないだろう。そう考えながらシュウが次第に濃さを増す霧に視界を阻まれながら、足元の靴跡を追いかけること十五分ほど。それまで辿れていた靴跡が途絶えてしまった。
――アハハハハッ……ハハッ……
突然、耳元に吹きかかる息。生温かい感触が残る。いわく付きの場所では珍しくもない現象であるとはいえ、いい気分ではない。即座にシュウは振り返った。霧の向こう側へ何者かが駆け抜けてゆく気配がある。童のものとも女童のものともつかない不思議な調子の笑い声が、幾重にも木霊しながら、シュウが今来た道へと消えてゆく。
流石は神が棲むと云われる山と謳われるだけはある。そう感心しながら、声が去って行った方向に向かうべきか、それとも自身の頭脳を頼りにすべきかとシュウは迷ったものの、結局、自らの頭脳以上に信頼がおけるものもないと、マサキの痕跡を探して左右の草むらに視線を向けた。
脳内でマサキの行動をシミュレートする。回りくどいことを嫌う彼のことだ。一直線に山頂を目指したいと思っているに決まっている。そうである以上、緩やかな傾斜を選んで設置されている山道を、いつまでも大人しく登っている筈がない。そのシュウの考えは当たっていたようだ。左手側にうっすらと獣道らしきものが見える。傾斜の強い獣道。見た感じでは山頂への近道のように感じられる。シュウはここに違いないと草を分け入って獣道に入った。草に隠されていた獣道の姿が露わになる。踏み倒された草の跡。点々と続く足跡は、歩幅からしてマサキのものらしい。
その足跡を追って十分ほど。またも唐突に靴跡が消えた。
――フフフ……クスクス……
背後で聞こえてきた少女と少年の笑い合う声。何者がこの山に棲んでいるか不明だが、どうやら彼らはシュウを監視しているらしい。道を阻むでもなく笑い声を届けてくる数々の存在にシュウはそう考えたものの、だからといって彼らに構っている暇はない。シュウは振り返ることなく、次のマサキの行動をシミュレートし始めた。
マサキがこの山に入って、既に一日が経過してしまっているのだ。
人間は一週間ほど絶食したぐらいでは死なないとはよく云ったものの、それは水が豊富にあってこその話だ。どこかには川が流れている可能性もあったが、そう都合よく遭難者が水や食べ物にありつける筈もない。シュウは前方を確認した。獣道は途切れがちとなり、先行きを怪しいものとしている。だとしたらマサキのこと。元の道に戻ろうとしたのではないだろうか? それもただ戻ろうとしたのではなく、自分が獣道に分け入ったポイントよりも先のポイントに出ようと目論んだのではなかろうか。そう考えて右方の斜め後ろを確認してみると、あった。道なき道をマサキが通っていた跡が、そこに確かに残されている。
気付けば周囲は音を失くしていた。不可思議な存在は既に姿を消してしまったのだろう。シュウはついでと周囲に目を配ってみたものの、それらしき存在はついぞ見付けられなかった。
――いずれ機会があれば、その正体が知れる時もあるだろう。
不可思議な存在に気になることはあれど、今はマサキの探索が先――。そうしてシュウが新たに発見したマサキの靴跡を追いかけながら、急斜を斜めに下りること暫く。木立の合間から山道が姿を現わした。そこからのマサキの靴跡は、山道に沿って続いているようだ。シュウは身体に付いた葉や草を払い、山道を進み始めた。どうやら迷いかけたことが相当に堪えたらしく、今度のマサキの靴跡は山道を外れる気配がない。迷ってばかりのマサキにしてはよく頑張っていると思えるまでに続く靴跡に、シュウは時計を確認した。山道に戻ってから三十分が経過している。
先は長い。そろそろ一度休憩を取るべきか。シュウがそう思って、手近な岩に腰掛けようとした瞬間。ここは幻想と現実が混じり合う場所。耳元近くで若い女の声がした。山に入ってから断続的に続く摩訶不思議な現象に、彼らはいつの間にそこまで自分との距離を近くしているのか――。そう思ったシュウは横目でそこに居るだろう存在を確認しようとした。けれども髪の毛一本たりとも視界に入ってはこない。あなたは何を求めて来たのかしら、シュウ=シラカワ。続けて耳の後ろ側から聞こえてきた声は、聞き間違えようのない声でそう云うと、ふっとその気配を消した。
――私の名前を知っている……?
この山には自分と因縁の深い何かが棲んでいるようだ。シュウは少しの間、岩に腰掛けて休憩を取り、そして再びマサキの靴跡を辿り始めた。どうやらマサキもまた、この辺りで一度休もうと思ったようだ。ほぼ同じ場所にあった靴跡の乱れを見て取ったシュウは、妙な所で考えの似た己らに、切羽詰まった状況にあるとわかっていながらも、零れる笑みを抑えることが出来なかった。
日常においてもそうだ。シュウがマサキに会いたいと思っている時に何の前触れもなく姿を現わしてみせたり、その際にシュウが用意していた菓子と同じ物を手土産に持参してみせたりと、この手の話は枚挙に遑がない。なら、次にマサキが向かうだろう道は……シュウは霧に覆われている道を眺めた。マサキが入山してもこの状態であったのであれば、彼はそろそろこの代わり映えのしない景色に飽きを覚えている頃だ……消えた靴跡に、周囲を窺う。側道に蒲葡色の野花がちらほらと咲いている。何故、山道がここで二手に分かれるのかシュウには理解が及ばなかったが、恐らくマサキのこと。目新しい景色に誘われてこちらの道へと進んだのではなかろうか。そう考えて、側道に入ること暫し。復活した靴跡に、やはりとシュウはひっそりと笑った。
マサキを探しながら、マサキに思いを馳せる道。それもまた悪くないと感じながら、側道を上がって行く。開けた斜面。色鮮やかに咲き誇る花が、時に群れとなってシュウを迎え入れる。膝の高さで咲くその花の名をシュウは知らなかったけれども、その花はひとり山を往くマサキの目を充分に楽しませてくれたのだろう。道に沿って続く途切れることのない靴跡を、シュウはゆっくりと、自分のペースを崩すことなく追って行った。
目に付いたものを目印としてしまうマサキは、動くものですら目印としてしまう。だからこそ迷い易い性質でもあるのだが、今回はそれが功を奏したようだ。代り映えのしない景色にぽっと湧き出てきた蒲葡色の野花が途切れるまで続いた靴跡は、やがて思いがけぬ場所に出た。山道だ。
成程とシュウは辺りを窺って頷いた。どうやらシュウが行った道は獣道であったようだ。恐らくかつての観光客たちも野花を求めてシュウが今通って来た道に分け入って行ったのだろう。彼らに踏みしだかれた結果、それは山道と変わらないほどに確かな道となった。今尚その道が残っているのが獣たちの仕業であるのか、それとも人ならざる者の仕業であるのかシュウには判断が付かなかったが、マサキにとっては僥倖であったのではないだろうか。再び山道を登り始めた靴跡にシュウはほっと息を吐く。丁度いい。シュウは身体を休めることにした。
山道と木立を挟んで続いていたらしい分かれ道がひとつになった所で、少し外れた所にある倒木に腰を落ち着ける。結構な巨木だ。ささくれだった幹にシートを掛け、腰を休める。その直後、シュウは後ろ髪を背後から撫でられたような感触に襲われた。反射的にぴくりと震える肩。ただ声を掛けられるだけであったものが、ついには接触を果たしてきた。シュウは自らの名を知っていた彼らに興味を掻き立てられながらも、マサキを探し出さなければならないという急場にあっては構っている暇もなく。
とはいえ、姿の見えない彼らに好き放題されるのはいい気分ではない。
シュウは彼らの姿を確認すべく背後を振り返った。キャハハ! と、誰もいない空間から、聞こえてくる童とも女童ともつかない無邪気な笑い声。最初のものより甲高い。シュウがそう思った次の瞬間、彼らはシュウの周りをぐるぐると回り始めた。霧が不自然にたゆとう。そのまま彼らは徐々にスピードを速めていくと、シュウの周囲に吹き上がる風を巻き起こした。
――私の名を知るあなた方は何者です。
シュウはようやく言葉を発した、けれどもその問いに答えは返ってこなかった。キャハハハハ……ッ! 山に木霊した笑い声が膨張しきった風船が割れるように弾け飛んだ。止んだ風の中央で、シュウは空を見上げた。霧の向こうにある山の頂。創造神ギゾース=グラギオスが矛を立てたとされている地点に辿り着けば、その答えを得られるのだろうか? シュウは腰を落ち着けていた巨木の幹から立ち上がった。そしてこう思った。もしかすると彼らは方向音痴のマサキをその声と存在で以て、山の奥へとかどわかしていったのではないだろうか、と。
そこから二時間程。時に獣道へと迷い込むマサキの靴跡を追い続けたシュウは、未知なる存在である彼らと度々遭遇を果たしながらも、決定的な答えを得ることもなく。そうこうしている内にようやくと云うべきか、微かにだがマサキのプラーナを感じ取れる場所に出た。これで靴跡を追う為に目を凝らす必要はなくなった。シュウはマサキがいる方向を伝えてくる彼のプラーナを手繰るように、歩を早めて先を急いだ。左上方に感じるマサキのプラーナは、シュウが山道を往けば往っただけ、その波動をより強いものとしていった。間違いない。シュウは確信を抱いた。霧の向こう側に存在しているだろうクンバカルナの頂。マサキはこの一日の間に、幾度も道に迷いながらもそこまで辿り着いたのだ。
やがて木々がその幹の数を減らし、空を覆っていた葉が薄らいでゆく。シュウは足を止めた。文字が掠れて読み難くなっている山道脇に立てられた立札を読めば標高750メートル。頂まではあと僅かだ。ゆっくりと、だが確実に強さを増してゆくマサキのプラーナの波動に、シュウはこの先に広がっているだろう光景を想像した。
あれだけ不可思議な存在に行く先々で接触を図られたのだ。そこまでしておいて、山の頂にマサキだけしかいないなどということが有り得ようか。神の棲む山クンバカルナ。風の魔装機神に立ち往生させるほどの影響を及ぼした山には、必ず何某かの秘密が潜んでいる。それにマサキが迫らなかったとどうして云えるだろうか。山頂に辿り着いて成果がなければ、気短なマサキのこと。直ぐに下山を決意するだろう。
何より彼は身一つで山に登っているのだ。テントも寝袋も食料も持たずして山に入った以上、長居が出来ないことぐらいは、如何にマサキであろうと把握している筈だ――。シュウは石が目立ち始めた山道を、残り僅かと、疲れの見え始めた自らの足に云い聞かせて登って行った。
そうして、そこに出た。
山頂まで毛ほどの先となったところに、棚が広がっている。その中央に銀色の矛を手にした人影がある。布を巻き付けたような衣装に、腰まで届く長い髪。胸と股間の両方に膨らみがある中性的な面差しをした人型の生き物は、足を微かに宙に浮かせて、尋常ならざる気配を漂わせながらそこに居た。
「これまでの不可思議な現象の数々は、あなたの仕業ということなのでしょうかね」
人の形をしていても、人ではない。シュウは本能的に目の前の存在が、自らと同じ種に属していないことを感じ取った。マサキのプラーナの波動は、間違いなくこここそがシュウの目的地であると伝えている。シュウは目の前の存在に意識を集中させながら、慎重に辺りを窺った。見通しの良い棚。けれどもマサキの姿はどこにも見えない。と、いうことは――。シュウがそう考えを及ばせた瞬間。ふっと空気が動いた。一瞬にしてシュウと人ならざる存在のとの距離が詰まる。彼とも彼女とも呼べない存在は、そしてシュウの足元に手にしていた矛を突き立てた。
「ここは力を失ってしまったが故に、精霊界に居られなくなった精霊たちが集う地。かつて巨人族が栄華を誇った先史時代よりも太古より彼らの安寧の場所であった地。お前は何を求めてこの地へと足を踏み入れた、シュウ=シラカワ。否、クリストフ=グラン=マクソード!」
成程、とシュウは納得した。目の前の存在が吐き出した言葉は、シュウにひとつの天啓を授けたのだ。
「そういった話であるのであれば、私はあなた方には用はない。マサキを返してくれさえすれば結構」
「魔装機とは罪深き鎧であり剣である。我々の力を奪う使役者を、お前は連れて帰ると云うのか」
矛を抜き取った人ならざる存在は、退くことのないシュウに苛立ちを覚えたようだ。その矛先を今度はシュウ自身へと向けてくる。ひやりとした感触。首元へと当てられた鋒に、だからといってシュウは尻込みするような性格ではない。自らの置かれている状況を楽しむ余裕すらあるシュウは、うっすらと笑ってみせながら人ならざる者の問いに当然のことと答えた。
「人間とは強欲な生き物だ。神に逆らい精霊を使役し、世界の覇者たらんとす。それが世界の秩序を取り返しのつかない程に乱しているとも知らずに。それでもお前はあの男を連れて帰るというのか、クリストフ」
「それこそが弱肉強食というものであるでしょう。名もなき無の精霊よ」
シュウの言葉に、人ならざる存在は動揺もありありと。くっ、と食いしばった歯の隙間から声を洩らすと、シュウの首元に押し当てていた矛を引いた。嗚呼、嗚呼、嗚呼。暫く譫言を吐いていた人ならざる存在は、不意にその言葉を途切れさせると、耐え難い苦痛を与えられた英雄のような声で宙へと言葉を解き放った。
「何故、たかが人間如きが――その名に何故思い至った!」
「さて、簡単な推量ですよ。力なき精霊たちが集う地に力ある精霊が存在しているのであれば、それはどういった性質を持つ精霊であるのだろうかというね。子供でも解ける公案です。在るのに無い、無いのに在る。それは何かと問われれば、有を生み出す場所。或いは、有を飲み込む場所。即ち無に他ならない」
「……流石はサーヴァ=ヴォルクルスが欲しがっただけはある。ただの人間ではないようだ」
それにシュウは苦笑してみせた。どれだけの才能に与ろうとも、栄誉には与れない自分。人が人の頂点に君臨する為には、力と才能と立場の全てを手に入れる必要がある。それを叶えてしまった少年をシュウは知っている。歴史の影に消えてゆくだろうシュウに対して、彼は歴史の表街道を歩き続けてゆくだろう。そしてそう遠くない未来に歴史に名を遺す覇者となる……。
マサキ=アンドー。シュウにとっては祈りに等しいその名を胸の内に刻みながら、そのまま。シュウは闇の精霊に向けて意味ありげに笑ってみせた。
「さあ、私はただの人間ですよ。私自身はね」
そうしたシュウの態度は闇の精霊にとっては、予想外で癇に障るものであるようだ。嗚呼、神は何故こんなちっぽけで脆弱な生き物に、知恵という武器を与えたもうたものか! そう云って闇の精霊は大仰に嘆いてみせると、悲しみに満ちた瞳でシュウを見た。
「実存の大小で力の大きさが量れるものでないことぐらい、あなたほどの存在であれば想像が付くことでしょうに。全ては自然の摂理、この世を取り巻く様々な事象はそれ以上でもそれ以下でもないのです」
シュウは闇の精霊に手を差し出した。闇の精霊に統べられる力を失った精霊たちといった構図に心惹かれるものはあれど、創造神神話を持つクンバカルナに彼らが住んでいるという事実はシュウに好奇心で物を尋ねることを躊躇わせた。
暴いてはならない闇というものが、この世には確かに存在している。シュウは彼ら、力を失った精霊たちを尊びたいと思ったのだ。だからこそ、敢えて彼らの世界の摂理には触れないこととした。
「さて、マサキを返して頂きましょうか。あなたに辿り着けた褒美だ。そのくらいは与えてくださってもいいでしょう」
「いいだろう。しかし二度はない」
「ええ、それで結構。その時は愚かな人間の力を見せ付けてみせるだけですよ」
なんと、と闇の精霊は目を剥いた。しかしそれも一瞬のこと。その眼が反抗的な人間を諫めるようにぎろりとシュウを睨んでくる。
「反吐が出るほどに好戦的だ」
「それはお互い様というものですね、無の精霊よ。これまでと同様に静かに暮らしては如何ですか。あなたにとっては我々の時代も瞬きの間に過ぎてゆくものでしょう。少しばかり人間が騒がしくしたぐらいで、この世界の何が変わる筈もなし」
ふん、と闇の精霊は鼻を鳴らす。その手がシュウの手首を掴み、自らの胸へと引き寄せる。豊満な胸の谷間に押し当てさせられる手のひらに、確かに伝わってくる闇の精霊の鼓動。それはシュウ自身が感じたことのないぐらいに、かつてない昂ぶりを見せていた。
「力を失ってゆく精霊たちを、お前は運命だとでも云うつもりか」
「巨人族の隆盛を見てきたあなたなら理解が及ぶと思いますが」
「永遠など存在しないと」
「それはアンティラスにでも聞くのですね――。さあ、マサキ。起きなさい」
力を失った精霊たちの中に独り存在する力ある無の精霊。手にした矛がどういった役割を果たすものであるのか。シュウには何となく予想が付いてしまっていたけれども、だからと云ってこの場に留まり続ける訳にも行かない。
シュウは押し当てたままの手をそうっとその胸の奥に押し込んだ。ずるりと入り込む手があっという間に手首まで埋まる。ああ、そこに居るのですね。感嘆にも似た声を放ちながら、シュウは更に手を押し込んだ。闇の精霊は物云わず、シュウを間近に見守っている。腕が埋まる。肘までシュウの手が闇の精霊の胸の谷間に埋まったところで、誰かがシュウの手を掴んだ。馴染んだグローブの感触。シュウはひと思いにその手の先にあるだろう身体を、闇の精霊の体内から引き摺り出した。
――遅え。
眠そうな目をしたマサキが、シュウの腕の中に倒れ込んでくるのと同時に闇の精霊は姿を消し、それまでうっそうと周囲を覆っていた霧が一気に晴れた。
どうやら一時的にクンバカルナに張り巡らされている結界が解かれたようだ。チカ、とシュウは天空より山を見下ろしていた自らの使い魔を呼んだ。シュウの命令に従って、上空で待機を続けていたチカは、晴れた霧にルーララルルーと空に響き渡る鳴き声を放つと、白き衣装の肩口にちょこんと止まってみせ、それじゃあ帰りましょうかね。と、空の彼方。機影を近くするサイバードに視線を向けながら云った。
リクエスト「山で迷子になってしまったマサキを探す依頼をこなすシラカ」