街を染め上げる千紫万紅の花々。通りの脇に、家の軒先に、所狭しと咲き誇る花々は、まさに我が世の春と季節を謳歌しているようでもあった。
ラングランに流通する花の四割を生産している街だけあって、そこかしこに花が溢れている。流石は花の都と呼ばれるだけはある――ラングランの風に乗って漂ってくる爽やかな花の香りを嗅ぎながら、マサキは辺りを見渡した。
任務の帰りに寄った街だった。
街の南西にあるラングラン最大規模のフラワーガーデンには凡そ三千種の花が咲き乱れている。その噂を聞き付けたリューネが、「帰りにちょっと見て行こうよ」と、マサキを誘ってきたのが始まりだった。咲き誇る花々に圧倒されつつ潜ったフラワーガーデンの門。広大な土地に、まるで色相環を描くように並べられた種々様々な花々。グラーデーションも美しければ、散りばめられた補色も美しい。豊かな色相に彩られた広大な花の庭は、情緒が欠けていると指摘されることも多いマサキをも唸らせた。
とかく美麗だ。
ラギアスの泥臭くも豊かな自然も美しかったが、それとは趣のことなる美しさ。人の手が加えられた庭とはここまで優美に輝くものなのか。毅然と咲き誇る花々の気高くも艶やかな立ち姿に、さしものマサキも兜を脱いだ。
捻くれ者な一面を持ち併せるマサキは、日頃、何かれに付け余計なことを口にしがちだった。素直に何かを褒めることが出来ずに、ついうっかり口を滑らせてしまう。仕方のないことと見逃してくれる仲間も多かったが、生憎リューネ=ゾルダークという女性はそういった性格をしていない。これまでマサキは、慎まないその口の所為で何度リューネと喧嘩になったことか。
――凄いな。滅茶苦茶綺麗じゃねえか。
マサキからその言葉を引き出せた事実に満足したのだろう。上機嫌なリューネと過ごしたフラワーガーデンでの時間は、任務の疲れを吹き飛ばしてくれるまでに穏やかで満ち足りたものだった。
ところが、である。
その油断がいつもの事態を引き起こしてしまった。
フラワーガーデンの出口のアーチを潜り、街の中心部へと戻ってくる道すがら。ほんの一瞬、通りに面している時計屋のショーウィンドウの中身に気を取られた。見事な自動巻き時計。文字盤を外されて飾られていた中身の精巧な作りに、少しだけ――そう、本当に少しだけ目を奪われてしまった。
だからマサキはそれだったらと、リューネを呼び止めて、時計屋に入ろうと思ったのだ。
ところが、視線を戻すと、前を歩いていた筈のリューネの姿が何処にもない。
マサキはすぐさま足を止めて辺りを見渡した。来た道、往く道、通りの向こう側。花の都と二つ名で呼ばれるこの街は外からの観光客も多かったが、だからいって四頭立ての馬車が擦れ違えるぐらいの幅がある通りの向こう側が見渡せないほどではなかった。向かい側に並ぶ商店が全て見通せるぐらいの人通り。おかしいな。マサキは首を捻った。つい先程まで言葉を交わしながら一緒に歩いていたリューネ。彼女は何処に行ってしまったのだろう?
病的な方向音痴であるマサキは、そこで自分が道を間違えたのだと思ってしまった。きっと、何処かで彼女とはぐれたことに気付かぬまま時計屋の前に辿り着いてしまったのだ……そうなれば話は早い。マサキは来た道を引き返し始めた。フラワーガーデンの門の前だ。あそこにいれば、いずれリューネが探しに来てくれるに違いない。
「本当に大丈夫ニャの? 時計屋の前にいる方が良くニャい?」
「動き回った方が危険ニャんだニャ」
足元に絡みつきながらマサキに付いてくるシロとクロの不安げな表情。そうは云ってもだな。マサキはリューネの姿を探しつつ、フラワーガーデンがあると思しき方角へと足を進めていった。
「というか、マサキ。フラワーガーデンが何処にあったか覚えてるの?」
「おいらたち覚えてニャいんだニャ。ってことは」
「俺に何を期待してるんだ、お前らは」
壊滅的な方向感覚を誇る自分が正しい道など覚えている筈がない。多分こっちだろ。曲がり角に差し掛かったマサキは勘を頼りに道を折れた。心なしか見知らぬ景色が目の前に広がっている気がする。
「ねえ、マサキ。本当にこっちでいいの?」
「ニャんか見覚えのない通りに来た気がするんだニャ」
「全ての道は何処かには通じてるんだよ」
そう、ここは街なのだ。サイバスターに乗ってラングランの雄大な自然を駆け抜けている訳ではない。そうである以上、全ての道は何処かしらに通じている。それが例え、見知らぬ誰かの家であっても。
マサキは自信満々に言葉を継いだ。だから大丈夫だ。即座に、ええ? と足元から上がる声。主人に似て方向感覚が欠如しているシロとクロが、その暴挙に呆れ顔を晒している。
「それが毎回被害を拡大する原因ニャのね」
「おいら、気付いたら草原のまんニャかに居るのは嫌ニャんだニャ」
「流石に、そうなる前に引き返す――」
瞬間、周囲に咲き誇っている花の香りが一層色濃く立ち上った気がした。ぷんと鼻腔を擽る甘ったるい匂い。その、花の蜜に薄荷を混ぜたような一種独特な香りは、マサキの記憶を強烈に刺激した。
――これと同じ匂いをさせている男を知っている。
人工的な匂いは紛れもなく香水だ。マサキは顔を顰めた。嗅覚を刺激されたことによって呼び覚まされた直感は、決してこれから起こるだろう事態がマサキにとって都合のいいものではないことを告げていた。
この手の予感が外れることなど滅多にない。自身の直感を頼りにここまで生き延びてきたマサキは、だからこそ最大限に警戒をした。いつなんどき、あの男が姿を現わしてもいいように――。
「おや、マサキ」
周囲にばかり気を取られていて、正面への注意が疎かになっていたようだ。いつの間にか正面にまで迫っていた男が、マサキの目の前で足を止めた。シュウ。マサキは彼の名を口にした。すらりと伸びた長躯が、マサキを見下ろしてふふ……と微笑う。
「やっぱり、てめえかよ……」
シュウ=シラカワ。かつて王族であった彼は、それが高貴なる者の所作であるのか。地面の上を滑るように歩く。それだけではない。広域指名手配犯である自覚がある彼は常に追手を躱し続けているからだろう。気配を殺す術にも長けていた。だからこその急接近。マサキは舌打ちしながら、頭半分は高いシュウの顔を見上げた。涼やかな切れ長の瞳が穏やかにマサキの姿を捉えている。
「様子を窺うに、迷ったといったところでしょうかね」
顔を合わせるなり図星を突かれたマサキは、抵抗をする気力を根こそぎ奪われた気分になった。
マサキの唯一の泣き所である病的な方向感覚の欠如。徒歩で往けば迷子になり、サイバスターを駆れば行方不明になる。その所為で要らぬ危機に陥るのも日常茶飯事なマサキではあったが、マサキの周囲の人間たちにはマサキが何故迷うのか理解が及ばないからだろう。彼らはマサキの方向音痴を軽く考えている節があった。
茶化すようなシュウの口振りに、そういった彼の考えが透けて見えた気がしたマサキは、だからこそ、お前もかよ――と項垂れるしかなく。
マサキとしては努力しているつもりなのだ。覚えやすいものを目印にする。角でどっちに曲がったか覚えておく。なのに完膚なきまでに迷う。こうなると、元々見えている世界が異なっているとしか思えない。
――これだから普通に歩けるヤツは。
けれども、その考えをマサキは直ぐに改めた。今のマサキは人の手助けなくしてリューネとは合流出来ないのだ。いや、出来るかも知れなかったが、その為には万が一の奇跡が起きるのを待つしかなく。
「わかってるなら、道案内ぐらいしろよ」
人は本当に困窮すると、思いがけない行動を起こすようだ。
シュウの衣服の袖を引いたマサキは、自分のしたことながら驚かずにいられなかった。困り果てていたからとはいえ、いけ好かない男に縋ってしまった。けれども今更、それは間違いだと手を引っ込めるのも何か違う。マサキはシュウの衣装の袖を掴んだまま、彼の顔を見上げ続けた。
シュウとしても、マサキが素直に助けを求めてくるとは思っていなかったのだろう。微かに瞠目した瞳。意外そうにマサキを見下ろしているシュウの口から、途惑い混じりに言葉が吐き出される。
「御冗談を。私とて、この街に用件があって訪れているのですよ」
「ちょっとでいいんだよ。フラワーガーデンの入り口まで連れて行ってくれれば、そこで大人しく待つから」
「そうは云われましても――」
そこで彼は何かを思い付いてしまったようだった。にたりと裂ける口。人の悪いこの男は、マサキを目の前にすると特にその虫が騒ぎ出すらしい。わかりました。そう云ってマサキの手を袖からほどいたシュウは、付いて来なさい。と、今しがたマサキが来たばかりの道に身体を向けた。
「私の用事に付き合ってくれれば、道案内をしますよ。なあに。直ぐ済む用ですよ」
「本当に直ぐ済むんだろうな」マサキは慌ててシュウの後を追い掛けた。
優雅に歩いているように見えて、シュウの歩くスピードは予想外に速い。あっという間に人混みの中に姿を消してしまいそうになるその後ろ姿が、マサキには彼が花に呑まれてゆくように映る。
咲き誇る花に彩られた街は、美しい代わりに、訪れた者を引き込むような魔力に満ちている。彼とまではぐれてしまっては、一生、この街から出られなくなる――マサキは脳裏を掠めた予感を打ち払えなかった。
※ ※ ※
慣れた足取りで道を折れたシュウが住宅街に入り込んでゆく。寂れた裏通り。街の表の顔と裏の顔が異なるのは、ある程度の規模となった街では当たり前のことではあったが、花に彩られた麗しいこの街も類に洩れないようだ。
建物が折り重なって光を遮断している谷間を通る道には、あれだけ咲き誇っていた花がどこにもない。
かぐわしき花の香りが途絶えた通りには、洗い立ての洗濯物の匂いや支度の最中の料理の匂いと、生活臭に満ちている。既に仕事を終えたのか。それとも家事の合間の一服か。窓から流れ出てくる煙草の煙。昼なお暗い建物の谷間を当然と通り抜けてゆくシュウに、がらりと様相を変えた街の姿を目の当たりにしたマサキは現在地を尋ねずにいられなかった。
「ここは何処なんだ」
「あなたにそれを説明してわかるとは思えないのですが」
「そりゃそうなんだがな」
世間話に興じている恰幅のいい女性二人組の脇を抜け、子どもが道に白墨を使って落書きしているのを横目に先を往く。ありきたりな市民生活は、花があってもなくても変わらない。でも――と、マサキは頭を掻きながら続けた。
「フラワーガーデンからは遠ざかってるよな」
「私の目的地は其処ではありませんからね」
間違っていることも多々あったが、方向の見当を付けるぐらいはマサキにも出来た。その体感から察するに、シュウはどうやら北に向かっているようだ。
「大丈夫なのかね」マサキはごちた。
今頃、リューネはマサキを探し回っていることだろう。これだったら花を目印にすればよかったな。表通りに咲き誇る花々を思い返したマサキが口にすれば、方向音痴な主人がこれまで起こしてきた騒動を知っている二匹の使い魔はそうは思わなかったようだ。
「ニャに恐ろしいこと云ってるの?」とクロが、「あの状態でフラワーガーデンに戻れる筈がニャいんだニャ」とシロが口にする。その言葉で、シュウは今更ながらにマサキがこの街にいる理由に興味を持ったようだ。
「そう云えば、あなたは何故この街に?」
「今になってそれを訊くかね」マサキは呆れて溜息を吐いた。「任務の帰りだったんだよ。リューネが凄い綺麗だから見に行こうって云うからさ、フラワーガーデンを見に立ち寄ったんだ」
珍しくもはぐれることなく目的地に辿り着けた自分に、そこまでは順調だった。そうマサキが言葉を続けると、それをどうやら曲解したらしい。それはそれは。と、大仰に応じてみせたシュウがクックと声を上げて嗤った。
「順調に関係を深めていっているのですね」
「お前は何を云ってるんだ?」
「すべきことをきちんとこなしているようで何よりだと云っているのですよ」
正面に向き直ったシュウに、云ってろ。マサキは舌を鳴らした。
どうもこの男は、マサキに対する反発心でも持っているのか。周囲の人間の関係にやたらと肩入れをしてみせては、マサキを彼らの意に沿うように動かそうとしている節がある。
リューネにしてもそうだ。魔装機の操者でもない彼女は地底世界ではかなりイレギュラーな存在であったし、それ故に議会の槍玉に上げられることも多かった。いつまでも無関係な彼女に頼り続けるのは、地底世界の在り方としてどうなのか――送還の話が出る度、その気はないとリューネは突っぱねているようだったが、それもいつまで許されることか。
肩を並べて歩くこの男は、そうした彼女を取り巻く環境に対して物思うところがあるようだ。永住権を取らせればいいのですよ。と、遠回しにマサキにリューネとの結婚を勧めてきたこともあった。
迂闊に何かを云い返してしまっては、余計な言葉を引き出しかねない。マサキはそれ以上、シュウに何かを云うのを避けた。シュウ自身も話を深掘りするつもりはないのだろう。もう少しですよ。と、話を切り替えてきた。
「やっと目的地に着くのかよ」
「ええ。お待たせしましたね。とはいえ着いて終わりという話でもありませんがね」
そろそろ住宅街も終わりが近付いてきたようだ。途切れ途切れながらも光が差し込み始めた通り。レンガ敷きの道の果てに高く伸びる鉄柵が見えている。どうやら薔薇園であるようだ。柵の向こうで白薔薇が咲き誇っている。高雅な香りが漂ってくる中、ようやく目に出来た花がある景色にマサキの不安は嘘のように払拭されていった。
シュウに続いて住宅街を抜けたマサキは、彼とともに、柵に沿って道を折れた先にある薔薇園の門に近付いて行った。
入り口に立っているふたりの守衛。ただの薔薇園にしては物々しい。
魔装機神の操者とはいえ、必ずしもマサキの顔を知っている者ばかりとは限らない。王都から離れた分、それは顕著になった。この街も例に洩れないのだろう。ここまで誰にも注目されることなく動き回っていたマサキは、警戒心露わに視線を注いでくるふたりの守衛に、大人しくシュウの後ろに立つことにした。
「彼は連れですよ」
「これは失礼をいたしました」
彼らとは顔馴染みであるようだ。スムーズに中に通されたシュウに続いて、マサキもまた薔薇園に足を踏み入れる。
「凄いな、あいつら。俺を睨みやがった」
「あなたの高く伸びた鼻を折るにはいい機会だったでしょう、マサキ」
こじんまりとした広場から伸びる一本道。薔薇のアーチを潜り抜けるようにして先に進んでゆく。
「誰も彼もが俺を知ってるなんて思っちゃいねえよ。ただ、ここがそんなに大事な場所なのかって」
「ラングランに流通する花の四割を生産している街ですからね。それだけに、ここでしか作られていない品種も多いのですよ。特にこの薔薇園は、王室から納入業者の指定を受けているぐらいでして」
「納入業者? 花を納品してるのか?」
「品種によっては繁殖が難しく、一代限りであったりするのですよ。ですから定期的に花を仕入れる必要があるのです」
はあ。マサキは溜息を吐いた。
幾度か足を踏み入れたことのあるラングランの王宮は、一目で贅を尽くしたとわかる造りをしていた。
各地から集められえた一流の調度品に芸術作品。そして蒐集品。ひとつひとつは優れた作品であっても、一極に集中すれば統一感を欠く。華美を通り越してけばけばしい。ごちゃついた雰囲気を好まないマサキにとって、無駄に飾り立てられたあの場所は決して居心地のいい場所ではなかった。
それは王宮庭園にしても同様だった。限られたスペースにありったけの花々を詰め込んだような庭は、調和の取れたフラワーガーデンとは明らかに趣が異なった。美しくはあるものの、落ち着かない。きっと、権勢を誇示する為に造られたものであるからだろう。どこかちぐはぐな印象を受けたものだ。
「金にあかせて珍しいものを集めてるってか。そんなことわざわざしなくとも、ラングランの自然だけで充分だろ」
「フラワーガーデンを見に行った人の口から出る言葉とは思えませんね。あれとて人の手が入った庭ですよ」
「それはそうなんだが、伝わってくるもんが違うって云うかな」
「成程」シュウが感心した様子をみせた。「あなたはわかる側の人間なのですね」
足を止めたシュウが辺りを見渡す。マサキも彼に倣って足を止めた。仄かに色の付いた薔薇が咲き誇る庭。どうやらマサキが白薔薇だと思っていた薔薇の数々は、薄く色に染まった薔薇の集合体であったようだ。
ほんのりと藤色に染まっている薔薇もあれば、うっすらと赤紫に染まっている薔薇もある。その中にひっそりと紛れ込むようにして咲いている水色の薔薇。そうっと手を伸ばしたシュウが、ブルーローズと呟いて花弁を指先でなぞった。
「ブルーローズ? 青いっていうほど青くないな」
「薔薇には青色を作り出す色素がないのですよ。だから青みがこれだけしかなくとも、充分にブルーローズと呼べるのです」
「色素が元々ないならどうやってこの薔薇は出来たんだ。水色だって青だろ」
マサキの素朴な疑問に、シュウは答えず微笑むだけだ。
おい。マサキはシュウを促すも、何か訳でもあるのだろうか。行きましょう。と、逆にマサキを促してくる。
釈然としない思いは残るも、ここでシュウとはぐれる訳にもいかない。白い衣装をひらめかせながら先を往くシュウに続いて、マサキもまた小路を往った。
「行けども行けども薔薇ニャんだニャ」
「薔薇園なら当たり前だろ」
「全部色が薄いのはニャんでニャのかしら」
クロの言葉に、確かにそうだなと思ったマサキは周囲を眺め回した。藤色、赤紫、水色。どれもこれも雨が降っただけで色落ちしそうなほどに色が薄い。
「ぱっと見だと白薔薇ニャんだニャ」
「お前、やっぱり俺の使い魔なんだな。同じこと思ってやがる」
「こんニャに色が薄いと逆に気付けなさそうニャのね」
「王宮にもあったのかニャ。おいら花にはあんまり興味がニャいから覚えてニャいのだ」
当代に移り変わってからというもの、あまり上がることのなくなった王宮。マサキは脳裏にかつての王宮の姿を蘇らせた。栄華を誇っていた時代の王宮の記憶は、やはりけばけばしい感じが否めなかったが、庭に薔薇が咲いていたのは確かだった。
ただ、数多の品種が豪華絢爛に咲き誇るあの庭では、色付きの薄いブルーローズは白薔薇の一種にしか見えなかっただろう。
「青い薔薇、か」
ややあって、マサキが呟いたひと言に反応するかのように、この薔薇は――と、シュウが口を開く。
「昔、王宮にいたひとりの園丁が育て上げたものなのですよ。彼は希少価値の高い花が集まる王宮に強い好奇心を持っていたようでしてね。叔父に直接願い出たのですよ。この庭の花を使って品種改良がしたいと」
薔薇のアーチも尽き、視界が開けた庭には一面の薔薇が咲き誇っている。蠢く人影は、花の世話に勤しんでいる園丁たちであるのだろう。彼らに軽く会釈をしながら、目の前に姿を現わしたログハウス風の建物に向かってゆくシュウに、まさか――と、マサキは言葉を継いだ。
この薔薇園はその園丁が作り上げたものであるのだろうか? それにしては園の規模が大きい気がするが、この話の流れでそれ以外の可能性があるようにも思えず。マサキは探るようにシュウの顔を見詰めた。
どうやら、そのマサキの予想は当たっていたようだ。
「その、まさかなのですよ」ふふふ……と、シュウが可笑しくて堪らないといった笑い声を上げる。「叔父は求めるものに正直な人間が好きでしたからね。この街にあった別荘を潰して出来た土地をまるごと彼に与えたのですよ」
ログハウスの入り口に立ったシュウが呼び鈴を鳴らす。奥から響いてくる足音が扉を挟んだ位置で止まる。ややあってぎいと軋んだ音を立てながら開かれた扉。その向こう側から、白髪も目立つ初老の男が姿を現わした。
「お待ちしていましたよ、坊ちゃん」
陽に焼けた肌は、日々、薔薇の世話に励んでいるからであるのだろう。坊ちゃんと気安く呼べる辺り、王室時代のシュウと馴染みが深そうだ。相好を崩してシュウを出迎えた男は隣に立つマサキを目にして、「これは魔装機神の操者様」と、恭しく頭を下げてきた。
「邪魔するぜ」マサキも軽く会釈を返す。
「どうぞお気になさらず。見学希望者には門戸を開いておりますから」
「そうなのか。出入り口に守衛が陣取ってたから、俺はてっきり関係者以外立ち入り禁止なのかと」
「珍しい薔薇が多いものですから、不届き者もそれなりに」男はそこでシュウに向き直った。「ところで坊ちゃん。今日はいつもの品だけで宜しいので? それだけででしたら、用意も出来ていますし、直ぐにお持ちいたしますが」
いいえ。と、笑ったシュウがちらとマサキを窺ってくる。
「折角ですから、彼にも土産を持たせたいのですが」
「坊ちゃんの申し付けでしたら何なりと」
直後、身を屈めたシュウが男の耳に何かを囁きかけた。
声を潜めて伝える必要がある以上、ただの土産ではなさそうだ。不安に駆られたマサキは足元の二匹の使い魔に目を遣った。野生の本能が騒ぐのだろう。薔薇に吸い寄せられるように飛んできた蝶々に意識を奪われているシロとクロに、暴れるんじゃねえぞ。マサキは先回りして釘を刺した。
「そういうことでしたら、喜んで」
ふむふむと頷きながらシュウの言葉を聞いていた男がにこりと笑う。
「直ぐにご用意いたしましょう」
そう云って、身のこなしも軽やかにログハウスに姿を消した男に、マサキの不安は増々募る。
「おかしなものを用意させるんじゃないだろうな」
「まさか。リューネにも土産をと思っただけですよ」
「内緒話をしてる時点で信用ならねえ」
不安が募ったことで溜まった鬱憤を、いよいよ腰を落として臨戦態勢に入った二匹の使い魔にぶつける。マサキは石畳が敷かれている小路を蹴り上げた。足先でマサキに払われた二匹の使い魔が、酷いんだニャ! と口々に抗議の声を上げるが、希少性の高いブルーローズに何かあってからでは遅い。
サイバスターの整備費用や戦争時の遠征費用に金を溜め込んでいるマサキにとって、二匹の使い魔が出す損害に対する損害賠償金ははした金であったが、だからといって金を払えば終わりという話でないことぐらいわかっている。どれだけマサキが頑張ったところで、彼らがブルーローズを生み出すのにかけた時間は取り戻せないのだ。
「お前らがここの人たちがかけた時間と同じだけ、花の世話をし続けるっていうならやってもいいぞ」
「無理ニャんだニャ」
「ごめんニャさい」
マサキの威嚇も手伝ってか。素直に反省の意を示す二匹に、「後、少しなんだから大人しくしてろよ」マサキはそう云い含め、きちんと座って待つように促した。
先程の一撃で危機感を覚えたようだ。ふわりふわりと優雅にその場を去ってゆく蝶々に、気長に待つしかないと覚ったのだろう。行儀よく石畳の上に座った二匹に、それでいい――と、マサキはシュウに向き直った。
「しっかし、お前を『坊ちゃん』呼ばわりねえ。そんなに古い付き合いなのか」
「私が物心付いた時にはもういましたからね。よく花がどうやって育つのかを聞きにいったものですよ」
確かに王室育ちなシュウは、美しいものに造詣が深そうではあった。そもそも、嗜好品ひとつ取っても彼は上質な贅沢品を好んだものだ。あれだけ豪華絢爛な場所で育った以上、さぞや目も肥えていることだろう。そう思いながら、マサキは言葉を継いだ。
「花がどうやって育つか、ねえ。水やって肥料やってじゃ済まないんだろうな」
「希少種は受粉すること自体珍しいですからね」
「そこからなのか。そりゃ大変だ」
「だから品種改良に頼るしかなくなるのですよ」
男はまだログハウスの中で作業中であるらしく、出てくる気配がない。
「十年目にして、ようやく青色の色素を持つブルーローズを作り出せたのだそうですよ」
「十年か……」
「様々な園芸家が挑み続けたブルーローズ。市場に出回っている品種は赤味を抑えたものばかりです。そこにようやく産み落とされた青い色素を持ったブルーローズ。それがどれだけ奇跡的なことかわかりますか、マサキ。かつてのブルーローズの花言葉は『不可能』や『存在しない』といったネガティブなものでした。それが今や、『奇跡』であったり、『神の祝福』であったり、或いは『夢叶う』であったりと、希少性を際立たせるものばかり。この青い薔薇に、人々がどれだけの神秘を感じたのかが伝わってくるようではありませんか」
ぎぃと軋み音を立てながらログハウスの扉が再び開く。姿を現わした男が手にしている三つの花束。うっすらと水色に色付く程度の青さではあったものの、それは紛れもなく青い色素を持ったブルーローズのみで作られたものだ。
「あなたにはこれを」
その中でも一番ボリュームのある花束をシュウが渡してくる。
「こんなに貰えねえよ。この後、道案内もしてもらうってのに」
「私からの気持ちですよ」
腹に一物ありそうなシュウの笑顔に、嫌な予感を覚えたマサキは手にした花束の薔薇の本数を数えてみた。
十一本のブルーローズ。何か意味があるのか。尋ねてみるも、シュウからの返事はない。
きっと自分で調べろということだろう――マサキはシュウが手にしている小ぶりな花束の薔薇の本数を数えた。どちらも五本ずつ。片方はリューネに渡す分として、もう片方を彼はどうするのだろう。園丁の男と立ち話に興じ始めたシュウを隣にマサキは考え込んだ。
こうまであからさまに薔薇の本数をシュウが変えてみせたということは、その数そのものに意味があるのは間違いない。十一本。口の中で自分の花束に使われている薔薇の本数を繰り返したマサキは、変わらずに行儀よく座っている二匹の使い魔を見下ろした。
「世のニャかには知らニャい方がいいこともあるのね。あたし、嫌ニャ予感がするのよ」
「おいらも嫌な予感がするんだニャ」
未知なるものに対する怖れがありありと窺える四つの眼に、マサキは宙を仰いだ。
知りたいような知りたくないような気持ちがないまぜとなった胸の内。きっとシュウのすることだ。嫌味に決まっている。そう思う半面、ここまでの時間を振り返って、今そういった回りくどい嫌がらせを彼がするだろうか? そうも思ってしまう……。
ややあって、マサキは思い切った。穏やかなのも今日限り。きっと次に顔を合わせた時には、また彼の嫌味や皮肉を聞かされることになるのだろう。そして瞬間的に腹を立てたマサキは、彼と終わりのない口論を繰り広げるに違いない。
「知らぬが仏って云うしな」
マサキは薔薇の花束に視線を移した。そして、神の祝福。と、先程シュウに教わったばかりの花言葉を呟く。
「花言葉に免じて許してやるよ」
そう言葉を継げば、どういった思考を経てその発言に至ったのか理解が及ばなかったようだ。何の話です。シュウがマサキを振り返る。お前の無礼の話だよ。続くマサキの言葉に怪訝そうな表情を浮かべたシュウに、ははは。と、マサキは声を上げて快笑した。