テュッティに花壇の草むしりを命じられて、仕方なしに庭に出たマサキは、花壇の片隅で違和感を放っているある物に目を留めた。見間違える筈がない。蜜柑を入れるネット。その口が地中からひょこんと顔を覗かせている。
「何だ、これは」
根っこから草を引っこ抜く為に手にしていたスコップを差し込んで、ネットの周りを掘り返してみれば、山ほど詰め込まれた銀杏の実が姿を現わす。成程。果肉を腐らせていたのか。納得はしたものの、それが何故ここにあるのかという最大の謎は解けていない。マサキはネットを片手に邸内へと戻った。
「おい、これを庭に埋めたのは誰だよ」
あー、とヤンロンとともにリビングで呑気にお茶を啜っていたミオが声を上げた。
このふたりに限らず、お客様気分宜しくとゼオルートの館に乗り込んできては、大した手伝いをすることもないままに居座っては食っちゃ呑みばかりな魔装機操者は多い。マサキとはテュッティの扱いが異なるものだから、日々その態度は増長の一途を辿り、館の方々に彼らが持ち込んだ私物が放置されている。どうやらこの銀杏もそのひとつであるらしい。余所に埋めろよ、余所に。マサキは呆れつつ、そう云いながらミオに向けてネットを放り投げた。
「目印のない場所に埋めたら忘れちゃうじゃない」
「存在そのものを忘れてたんじゃ意味がねえ。俺が見付けなきゃ食い頃を逃してたぞ」
臭いの強い銀杏の処理は、普通にやろうとすると、軍手かゴム手袋が必要になる。水に浸からせながら果肉を取る。ひと言で済む作業は簡単に聞こえたものだけれども、実際は途方もなく時間のかかる作業だ。そうした根気の要る作業を避けたい人間は、ミオのように土の中に果肉の付いた銀杏の実を埋めた。そうすればやがて果肉が腐り、殻の付いた実だけが残る。
「俺のばあちゃんも良く庭に埋めてたな」
「古い人ってそうしがちだよね。きっと、おばあちゃんの知恵袋なんじゃない?」
ふと思い出した過去の記憶を口にしてみれば、懐かしい味が口の中に広がったような気がした。ほろ苦く、けれどもほの甘い味。炊き込みご飯とか煮物とか、色々作ってもらったっけな。マサキがそう呟くと、じゃあマサキにもあげるよ、とミオがネットを開いた。
「半分こしようよ」
「半分もか? お前が取ってきたもんだろ」
「ひとりじゃ食べ過ぎちゃう」
「危ねえなあ。中毒起こすぞ」
だからマサキにあげるんじゃないの、とキッチンに向かったミオがタッパーを片手に戻ってくる。そしてぱらぱらと銀杏の実を落とし込むと、「はい、これがマサキの分ね」とテーブルの上に置いた。
「ついでに調理もしてくれると有難いんだがな」
「えー? マサキもしかして銀杏の炒り方知らない?」
「ばあちゃんがやるのを見てただけだしなあ」
仕方ないなあ。口唇を僅かに尖らせて、しぶしぶと。愚痴りながら、ミオがキッチンに向かってゆく。その後ろ姿を見送ってから、マサキは再び庭に下りた。一歩進む度に、かさかさと踏みしだいた葉が潰れる音がする。
マサキは足元に目を遣った。気付けばレンガ敷きの道にも、落ち葉が溜まってしまっている。
「これは本腰を入れて庭の手入れをしないと駄目だな」
ひとつ伸びをしたマサキは、先ずは草むしりの続きと、先程までいた花壇に足を向けた。
※ ※ ※
銀杏。
まるで未知の単語を口にするようなぎこちなさで、マサキの言葉を復唱したシュウは、テーブルの上に乗っているタッパーの中に詰められている翡翠色の銀杏の粒に目を落とした。
「何だよ、まさか知らねえとか云うなよな」
地底と地上を行き来することもある男は、自らの出自である日本について造詣が深い。マサキが知らない情報に精通していることもままあるぐらいであるのだから、恐らくは自ら日本の文化や歴史を調べていたりもするのだろう。だからこそ、マサキはシュウが銀杏を知っているものとして、話を切り出したのだが。
「知ってはいますが、私が目にしたことがある銀杏の実というものは、橙色だった筈と」
「それは果肉が付いた状態だよ。果肉を削いで殻を剥くとこうなるんだ。綺麗な木の実だろ」
「確かに。見た目は普通の木の実ですね」
案外、一般的な知識には乏しいのやも知れない。しげしげと銀杏を眺めていたシュウは、今度はマサキに視線を移すと、
「それで、これはどうやって食べるものなのですか」
「興味がなかったって感じだな」
「道に落ちているものを拾うのには勇気が要りますからね」
「確かに」
マサキはタッパーの蓋を指先で叩いた。年齢を重ねるに連れ、山ほど落ちていても、興味をそそられなくなった銀杏。街のいたるところでその姿を見付けることが出来ても、いざそれを拾い上げるのには、シュウが云うように勇気が要る。
そのままにしておいたところで、通行人に踏みしだかれて悪臭を放つだけだ。だったら勇気を出して拾ってしまった方が、むしろ街の美化には貢献したやも知れない。
たった数年で形を変えてしまう街は、次第に潔癖さを増していくようだった。原野がビルの群れとなり、田んぼに商業施設が建つ。そこにはセリにナズナ、ノビルに銀杏。柚子もあれば、柿や栗だってあった。
そこかしこで手に入れられた食材に、手を伸ばすのを躊躇うようになったのは幾つからだっただろう?
開発の進む都市は、在りし日の日本の原風景を奪い去ってしまったのだろう。利便性という詭弁に踊らされるように、怠け者となってゆく都会人たち。彼らはより高度な技術を誇る街の機能を求めた。交通手段ひとつにしてもそう。商業施設ひとつにしてもそう。より高度に、より発展性のある……それがマサキには、微かに寂しく感じられたりもしたものだったが、今更忘れ去ってしまった地上世界に思いを馳せてどうとなる話でもない。季節は移り変わり、街はその姿を変えてゆく。そこに感傷的な感情を持ち込んでみたところで、たったひとりの安藤正樹に何が出来ただろう。
地上世界の変容よりも、地底世界の平和の維持。
マサキにとって世界とは、自分が足を踏みしてめて立つ大地にこそあるのだ。
当たり前のようにラングランで生き、当たり前のように日常生活を送る。ミオから貰った銀杏を、マサキが先ずシュウの所に持ち込もうと思ったのは、ささやかにも、シュウが心を寄せている自らの故郷の文化を、彼とともに分かち合いたかったからだった。それは、決して望郷の念といった感傷的な気持ちからくる発作的な行動ではない。
そもそもマサキに故郷への強い望郷の念があったとしたら、形振り構わず地上に出ていたことだろう。
全ては過去のこととなったのだ。
「しかし青い。この青さで食べられるとは、私には到底思えないのですがね」
シュウの言葉に心を引き戻されたマサキは、そこで話題をシュウの疑問に戻すこととした。
「炊き込みご飯や、煮物なんてのも美味しいけど、お前だったら塩で食べるのが一番なんじゃないかって」
「シンプルな食べ方ですね」
「酒のつまみには持ってこいだって話だぜ」
マサキのそのひと言は、シュウの食指を大いに動かしたようだ。成程、と頷くなり席を立つと、早速とばかりに棚からボトルワインを持ち出してくる。慎重にして大胆な男は、興味をそそられることに対しては、後先考えずに行動しがちだった。だからこそだろう。まだ、昼だぜ。性急にことを進めようとするシュウに、笑いながらマサキは云った。
「飲みたくなるようなことを云ったのは、あなたの方でしょう」
グラスを二脚。ワインのボトルと一緒にテーブルの上に並べて、シュウがひっそりと嗤う。マサキが付き合うのが当然と思っているような態度。けれども不快には感じない。マサキは肩をそびやかしながらも、ワイングラスを手に取った。
久しぶりの銀杏は、子どもの頃にはしなかった食べ方をするものとなりそうだ。
注がれるワインにグラスを揺らしながら、先ずはひと口。銀杏に口を付けたマサキは、そのほろ苦くもほの甘い味をじっくりと、懐かしい思い出とともに味わった。