終の休息

 意図せず洩れた溜息に、傍らのその人が顔を上げた。
 夕も過ぎてから、出かけましょう、と云われて連れ出された先の喫茶店で、窓の外を行き交う人々を眺めながら、氷が残るだけとなった手元のグラスの中身をストローで掻き混ぜていた。その矢先に。
 彼がテーブルに置いた本がぱたんと音を立てる。どうかしましたか。そう声をかけられたマサキは、答えに詰まってしまった。
 彼が好む店というのはどれもそうだ。クラッシックな外観。ひっそりとそれと知られないように街に馴染んでいる建物の中に足を踏み入れれば、その有り様に等しく静けさが漂う空間が広がる。そこには数組ばかりの客が点々と距離を取ってテーブルに着いていて、料理なり飲み物なりを味わいながら、それぞれの世界に没頭していた。
 彼らは一様に黙しているのが常だ。
「何か溜息を吐きたくなるようなことがありましたか、マサキ」
 凛と通る声。彼が声を潜めて発した声でさえも、店内に響く。見知らぬ顔の客ばかりとはいえ、会話が筒抜けになってしまうのは、決して心地良いものではない。マサキが言葉を発するのを躊躇ったのは、それが原因だった。
 別に。と返して、ぼんやりと。自分を真っ直ぐに凝視みつめてくる彼の顔を眺めた。
 何か用件があれば連絡を寄越すようにプレシアに云い置いて、ここに来た。ただ過ぎゆく時間に身を任せて、ふたりで怠惰に過ごす日々も何だかんだで三日目になる。気が向いたら食事をし、必要に迫られて掃除や洗濯をする。そして点けっ放しのテレビを偶に眺めては、思い出したように側にいる彼と話をして、眠りに就く。
 突然に呼び出されるような事件が起こらないことが平和の証だとしても、多忙であることに慣れてしまった身体は安穏とした日々では休まらない。マサキはストローを弄びながら呟いた。退屈だ。
「やりたいこともないままに、ここに来るからでしょうに」
「そういう意味じゃなくてよ」
 その続きを口にしてしまっていいものか悩んでいるからこそ、マサキの歯切れが悪いのだと察せない男ではないだろうに。マサキはグラスの底に溜まった水を啜った。薄まったジュースの味。不味くはないけれども美味しくもない。
「お前は本を読み続けてるし、俺は俺でテレビを見てるだけ。そんな生活はどうなんだろうな」
「休暇のつもりでいるのですがね」
「その休暇が問題なんじゃねえかよ。だらだらと一日が終わるのを待つように過ごすだけでさ。もう三日だぞ。適当に過ごすのにも限度があるだろ」
「それも休暇の醍醐味でしょう。時間に追われずに過ごす。とはいえ、それだけではあなたもつまらないでしょうから、こうして街に出ることにしたのですが、それだけでは足りませんでしたか」
「そういう風に時間を潰したいって云ってるんじゃねえよ」
 命の遣り取りをするあの瞬間の高揚感なのだ。マサキの今の生活に足りないものは。
 戦闘狂バトルジャンキーではないつもりだったものの、戦闘を欲してしまっている自分。他に生き方を知らないままに、青春時代を戦うことに費やしてしまった。だからこそ、いざこうして平和に慣れなければならなくなると、身体や心が抵抗を始めてしまうのだ。
 お前の生きる世界はここではないだろうと云われているような感覚。平穏無事な日々が過ぎてゆくことに退屈を感じてしまっている自分に、マサキは自分のことながら恐ろしいと感じている。自分はここから何処に向かい、何を目指して生きてゆくのか。平和が構築されてしまったこの地底世界で。
「お前は俺とこうして会ってる時以外は、何をしてるんだ」
「研究ですよ。知りたいことや解き明かしたいことは山ほどありますからね」
「そういうのが欲しいって云ってるんだよ、俺は。何か熱中出来る趣味……いや、違うな。何かが欲しい」
 これは重症そうだ。彼はそう云って苦笑いを浮かべた。そして少し離れた位置に立っているウエイターを呼び付けると、腰を落ち着けて話をすべき話題だと感じたからだろう。ふたり分の飲み物を注文オーダーすると、ウエイターが立ち去るのを待って言葉を継いだ。
「いつ何が起こるとも限らないのですから、その為の準備の期間に充ててもいいでしょうに」
「三日だぞ、三日。三日も何も起こらない。前回も、前々回も、その前もそうだった。滅多に起こらないことが半年も続いてる。それこそ平和って云うんじゃないのかね」
「目出度いことの筈なのに不満そうなのですよ、あなたが」
「だからどう過ごせばいいかわからねえって云ってるんだよ」
 マサキは再び溜息を吐いた。もしかすると目の前の彼は、マサキの胸中などとうに見通した上で、敢えてこうした回りくどい物云いをしているのではないだろうか。そんな考えが脳裏を過ぎる。
 昔は良かった――などと云うつもりはない。あの頃は遮二無二に生きるしかなかった。世界の命運を託されて、それに応える為にどうして手が抜けただろう。自らの全てを懸けなければならない戦いに身を投じてしまったマサキは、だからこそ戦いたいのだ。
 そう、全てを懸けたい。
 人生の全て、自らの持てる力の全てを賭して叶えたいものが、かつての自分にはあった。穏やかなる日々を、この世界の全ての国々に。その日々に終わりが訪れることなど考えたこともなかった。
 為政者はいつだって欲望に忠実だ。それは人間の醜悪なまでの弱さの表れでもある。
 歪んだ歴史観と歪んだ認知の世界に生きている彼らは、どうしてか自らの国の平定だけで満足しようとしない。過去の屈辱を、己の劣等感を晴らすように、自国の領土を余所に広げたがる。そして世界を自らの思想で埋め尽くそうと画策し始める。
 馬鹿々々しい。
 そんな風に思えていたマサキは今、だからこそ自分を持て余してしまっている。天邪鬼的ですらあった反骨心の向け先がない状態。よもや今更そのままならない感情を、目の前の男にぶつける訳にもいかない。
 赦すことを覚えてしまったマサキは、赦したものの分だけ、自らの感情のぶつける先を失っていってしまったのだ。
「平和だからといってそれに胡坐を掻いていいとは思えませんがね」
 直ぐに届けられた飲み物をひと口、口に含んだ彼はそう言葉を紡ぐと、マサキの感情を持て余しているかのように溜息を洩らした。それはマサキの気持ちが満たされないことをわかっているかのように、マサキの目には映る。
 気に入らない。
 結局、いつでも彼が導き出す結論は一緒だ。身体を動かせ、そればかり。まるでマサキにはそれしか能がないように扱う。
 そんなことはマサキとて考えてはいるのだ。戦いを欲っしているこの身体の渇きを満たしてやるには、それに等しい体力の消耗が必要なのだろう。けれどもそれを幾ら実行に移してみたところで、心も身体も満たされない。
 その答えは単純だ。
 マサキは何も賭けていない。
「ホント、お前っていっつもそうだよな。説教じみたことばかり口にしやがる」
「責めているつもりはありませんよ。ただ、あなたが何を求めているのか。それは、私には口に出来ないものでしょう。それに代わるものを、と問われても、あなたが他に何をしてみたいのかといった希望がない以上は――」
 そこで彼ははたと目を見開いた。何かに気付いてしまったかのような表情。ああ、とその口元から喘ぐような声が零れ落ちる。余程の天啓だったのだろうか。彼は落ち着きを取り戻そうとするかのように、目の前の飲み物に手を伸ばした。そして数口、飲み物を口に含むと、マサキ――と、落ち着いた声でマサキの名を呼んだ。
「なら、何が出来るかを一緒に探して行きましょう」
「何だって? これから探す?」
「そうですよ。思えばあなたはまだ幼さ残る内にラングランに召喚されてしまった。地上での教育も不十分ならば、地底世界での教育も不十分だ。知るは足る、ですよ。知らなければわからないことが世の中には沢山あります。何が出来るのか、何ならやりたいと思えるのか。その答えはそこにあるかも知れませんよ」
「俺に勉強をしろって?」
 まさか今更、学を身に付けろもあるまい。不安を覚えながらマサキは彼に尋ねた。
「知識を身に付けろと云っているのではありません。ラングランがどういった世界であるのか、どういった職業があり、どういった娯楽があるのか。それを知るに足る時間をあなたは得られていない。限られた世界の限られた人付き合いの中でしか生きれなかったあなたです。例えば、犯罪者を更生させる為の精神鍛錬に武術が用いられていることも知らないでしょう?」
「そうなのか? それは初耳だ」
「そういった役職を魔装機操者と兼任するのもいいでしょう。何せ相手は犯罪者だ。気を抜く暇などありません。あなたには向いている仕事だと私は思いますがね」
「他にはどんな仕事があるんだ?」
「あなたに必要なのはそうした知識ですよ、マサキ。この世界に根付いて生きてゆく為の知識。それを私とともに学んでいきましょう。私も全てを知っている訳ではありません。せせこましい王室や教団といった世界で生きてきた私の知識には限りがある」
 そこで彼は言葉を切ると、マサキの顔を真正面に。力強さを宿した瞳でしっかりと見据えてくると、
「一緒に探しましょう、マサキ。この世界に根付いて生きていく為の手段を」
 その言葉に、マサキは自分でも驚くほど自然に頷いていた。
 マサキが欲しかったのは、この世界で生きていける保障だったのかも知れない。自らが生まれた地上世界と異なる法則原理で動いているこの地底世界で、マサキたちは常に外様としてしか扱われてこなかった。それはマサキたちを強引に地上世界から召喚してしまったという地底人の負い目でもあっただろう。それがマサキは、いずれは地上世界で生きていけと云われているように思えて嫌だった。
 地上人も、地底人も、笑い泣き怒り悲しむ人間であることに変わりはないのだ。
 だからマサキはままならない感情を抱えてしまった。平和が訪れたこの世界に、平和の導き手たる魔装機の操者たちの出番はない。彼の許にいる時間の長さでその事実を思い知ってしまったマサキは、そのぶつけ先を戦場に求めた。そうでなければマサキたち地上人は、地底世界で生きられない。
 マサキは、生きていきたかったのだ。
 豊かなる自然が溢れ、穏やかなる人々が生を営むこの地底世界で。
 さあ、行きますよ。飲み物を飲み終えた彼は、そうして読みかけの本を小脇に立ち上がった。待てよ。とマサキは苦笑しながら自らの分の飲み物を一気に飲み干して、その後を追う。彼は何かに熱中し出すといつもこうだ。周囲のことに気が回らなくなる。
 それがどうしようもなく愛おしい。そしてどうしようもなく頼もしい。
 会計を済ませている彼に先立ってマサキは店の外に出て、夜となっても青空広がる地底世界を見渡した。これからも自分はこの世界で生きていくのだ。道を行き交う人々が当たり前のようにしているように。
 そして店を出てきた彼と肩を並べて、彼の家路への帰路を往く。
 それはとても静かで、優しい夜だった。

こんなお話いかがですか
マサキのお話は「意図せず漏れた溜息に、傍らのその人が顔を上げた」で始まり「静かで優しい夜だった」で終わります。