罪と罰のバレンタイン

「何だ、この料理」
 チカに呼び出されてシュウの独り家を訪れたマサキは、足を踏み入れるなり鼻腔をくすぐった美味しい匂いに誘われるがままリビングを覗き込んで、ローテーブルに所狭しと並べられている料理の豪勢さに首を傾げた。
 冷製スープにテリーヌ、色鮮やかなサラダ……メインディッシュはカツレツ。デザートにティラミスまである。きちんとディナーの体をなしている料理は、どう安く見積もってもケータリング。
 何か気分を良くすることでもあったのだろうか? そう思いながらマサキがテーブルの奥でソファに座っている家主に目を遣ってみれば、こちらはいつも通り。背表紙で人が殺せるのではないかと思うほどに分厚い書物を読み解くのに夢中になっている。
「チョコレートは冷蔵庫の中ですよ、マサキ」
 それでもマサキの存在を認識してはいるらしい。ただ構う気はないようだ。シュウは僅かに顔を上げてそうとだけ云うと、再び手元の書物に目を落としてしまった。
 そこからノートにメモを取ったり、本に付箋を貼ったりと忙しない。
 声を掛けるのも憚られる雰囲気に、「あー……うん、わかった」マサキは取り敢えずキッチンに向かい、冷蔵庫の中身を確認することにした。
 殆ど食材らしきものが入っていない冷蔵庫の中に、ひと目でそれと知れる漆黒の紙製の小箱。金色のリボンで封がされている。その手のひらサイズの小箱をリボンを解いて開いてみれば、中には金箔が振りかけられた正方形のチョコレートが、これまた正方形になるように並べられている。「えーと……」マサキは四つのチョコレートを眺めながら、その意味を考えた。
 ああ、と声を上げた。バレンタイン・デイ。
 本来の意味はどこにやら。製菓会社が売上を稼ぐべく打ち出したキャンペーンが功を奏して、好きな人にチョコレートを贈る日として認知されるようになった日だ。
 当然ながら、ラ・ギアスにバレンタインの風習はない。そもそも、バレンタインにチョコレートを贈るのは日本の習わしだ。その歴史も精々数十年。ましてや前述の由来である。元々、日本人との混血として日本の風習に造形が深いシュウではあったけれども、クリスマスもニューイヤーといった祝い事もマサキに用意をされなければ参加しない男。自らやるとしたら、精々ニューイヤーにかこつけた大掃除ぐらい。
 そんな男がまさかこれだけの用意をこの日にしてのけるとは。マサキは考えてもいなかっただけに、驚くと同時に、手ぶらでここに足を運んでしまった自分に気まずさを隠せない。
 本来なら自分が先に気付いて、用意をして然るべきだったのに。
 どうしたらいいのだろう。マサキは考える。チョコレートのみならずディナーまで用意されてしまった以上、何もないでは済まされないだろう。とはいえ、時は夜。もう開いている店も少ない。今からこの行いに釣り合う何かを買ってくるのは難しい。
 何せメッセンジャーよろしくとチカが呼びに来たのが夕方のこと。それまで安穏と一日を過ごしていたマサキは、その呼び出しの意味を深く考えずに家を出た。当然ながらどこかに寄ろうなどとは考えない。もう少し早く呼んでくれていたら……マサキはキッチンを出てリビングに戻ると、チョコレートの箱を片手に、相変わらず読書に余念のないシュウの隣に腰を下ろした。
「あのさ、シュウ。俺、今日が何の日か忘れてて、何も用意がないんだけど」
 ちらりとマサキを窺ったシュウは、膝の上の本を畳むと脇に置いた。
「そんなことだろうと思っていましたよ。あなたのこと。用意があったら、呼ばずとも来てくれたでしょうしね」
「今日はもう店が閉まってるし、明日でいいか。明日になったら何か返すから」
「どうしましょうかね」ふふ……とシュウが微笑う。「この日でなければ意味がないのでしょう」
「それは、そうだけど……」
 あまり穏便ではないシュウの物言いにマサキは口篭った。それはそうだろう。幾ら気まぐれに近い行為であったにせよ、これだけの用意をして待っていたのだ。マサキがそのイベントそのものを忘れていたとあっては、甲斐がない。
「では、こうしましょう」
 いたたまれなさにマサキがどうすべきか考えあぐねていると、シュウはマサキが手にしている漆黒のパッケージの蓋を指先で叩いた。「半分ずつですよ、マサキ」
「半分って。これはお前が選んで買ったチョコだろ」
「所詮は形ですしね。気持ちの方が大事でしょう」
「その気持ちを表す物じゃないか」
「だから半分ずつにしましょうと云っているのですよ、マサキ」
 そしてシュウは身を屈めてマサキの耳元に口を寄せると、食べさせて、とひとこと。それだけ云って顔を離すと微笑みを浮かべたまま。マサキの様子を窺うように顔を眺めている。
「う……」マサキは呻いた。
 シュウの云わんとしていることはわかっている。わかっているからこそ、マサキは気恥ずかしさに言葉が続かなくなった。少しの間。ほら、と促されてマサキはシュウの膝の上に乗った。仕方がない。今日が何の日であるか失念していた自分が悪いのだ。マサキは小箱の蓋を開いて、ひとつ。チョコレートをつまみ上げると、自らの口元に運んだ。
 口唇で挟み込んで、そうっと。
 シュウに顔を近付けて、その薄く開いた口元に口移しでチョコレートを押し込む。舌先に触れるチョコレート。舐める度に舌が絡む。
 甘くもあり、ほろ苦くもある、チョコレート味のキス。今日という日に相応しい。来年はたっぷり甘いチョコレートを贈ってやる。そんなことを考えながら暫く。マサキはチョコレートが溶けるのを待って、シュウから顔を離した。
「あと三回ですね、マサキ。それとも食べさせて欲しい?」
「半分こなんだろ?」
「なら、口を開いて」
 そうしてもう一度。今度はシュウの口からチョコレートを受け取ったマサキは、恐らくは高級なその味をシュウの舌とともに存分に味わった。
「あと二回。今食べますか? それとも?」
「全部食べるのが勿体ない気がする」
「なら、食後の楽しみに取っておきましょう。あなたの好きなタイミングでどうぞ」
 そこからディナー。ふたりでソファに肩を並べて、他愛ない会話を交わしながら、ワインを片手に料理を抓む。
 今日が何の日か忘れてしまっていたマサキだったけれども、思ったよりも気まずさを感じずに済んでいるのは、シュウがこうしてイベントの用意をしてくれていたからだ。「こんなバレンタインもいいもんだな」終わりよければ全てよし。シュウの気まぐれのお陰で満足のゆくイベントになったバレンタインに、マサキはそう云って笑った。
 残ったふたつのチョコレートは、ディナーのあと。ベッドに入る前に分けた。

 ――明日は一日遅れのバレンタインのプレゼントを買いに行こう。

 そして来月はホワイト・デイをともに祝うのだ。季節ごとにイベントがある今の関係に幸福を感じながら、マサキはシュウの隣。未来に思いを馳せながら眠りに就いた。

リクエスト「バレンタインをすっかり忘れてしまっていたマサキに白河さんからチョコをプレゼントされる」