がらんどうとはまさしくこれを云うのだろう。
残っているのは二脚の椅子のみ。向かい合わせに置かれている椅子の片方にひとり腰掛けたマサキは、そろそろ暮れなずみ始めた空を窓越しに見上げた。空にたなびく一条の雲が、まるで天を分かつように南から北へと伸びている。西の空には鳥の群れ。何処へ向かっているのだろう。一羽を先頭に長く列を描いている。
その鳥の姿が、自分と重なる。これまで確かなものとしてあった自分の拠り所を失ったマサキは、明日からの自分がこの世界でどう過ごしてゆくのか未だ明確な未来予想図を描けずにいた。
いつかは来ると覚悟していた日。そしてその日まで自分が責任を持つのだと決めていた日。その日の自分はどう感じ、どう振舞うのだろう? きっと達成感と充実感で満ち溢れているに違いない。幾度も頭の中でシミュレーションを繰り返した日は、かつてない栄光に彩られていたものだった。
だのに、ようやく訪れた解放の日は、マサキの胸に例えようのない洞を作っただけだった。
何かが大きく変わってしまった訳ではない。ただほんのちょっと離れて暮らすだけ。そう自分に云い聞かせてみても、一向に心が慰められる気配はない。らしくねえ。マサキは徐々に朱に染まってゆく空を見上げ続けながら、自分でも理解が出来ない感情をどう昇華すべきなのか迷っていた。
瞬間、マサキ――と、背後から名前を呼ばれた。
振り返れば、すらりとした長躯が部屋の入り口を塞いでいる。
家財道具のなくなった部屋は、黄昏刻の太陽の光を良く通している。部屋を満たす朱鷺色。男の白い衣装が夕闇間近な空の色に染まっているのを目にしたマサキは、死ぬほど似合わねえな。口に出すことなく思った。
屋敷を処分しようと云い出したのはプレシアだった。だってお兄ちゃんひとりじゃ、この家、管理出来ないでしょう。尤もな義妹の云い分に、マサキは当然ながら反対した。お前の両親の大事な思い出が詰まった家だぞ。けれどもプレシアが折れることはなかった。
――もう、いいの。いいんだよ、お兄ちゃん。今まで本当に有難う。この家とあたしを守ってくれて。
既に鬼籍となって久しい両親への気持ちに、いつの間にかプレシアは整理を付けてしまっていたようだ。
――だから、もう自由になって。
話し合いは三日三晩続いた。誰に似たのか、どちらも頑固者。そういった意味ではマサキとプレシアは紛れもなく家族だった。
時には怒鳴り合いにも発展した話し合い。けれども結局マサキが折れてしまったのは、プレシアのその言葉がとどめとなったからだった。自由になって。それはプレシア自身が自由を得たからこそ出てきた言葉でもあった。
とはいえ、マサキは可愛い義妹との生活に窮屈さを感じてなどいなかった。やりたいことの全てがやれる生活ではなかったけれども、ふたりで身を寄せ合って生きていく上で、それは甘んじて受け入れるべき拘束だ。
マサキにとってはそれさえも歓びだった。
失くした家族を再び手に入れることが出来たのだ。しかも妹という形を取って。これでどうしてプレシアを邪魔に思えたものか。
だのにプレシアは云うのだ。あたしの為に、自分の未来を諦めないで――と。その意味が少しだけわかるようになり始めていたマサキは、プレシアのその言葉に素直に従っていいものかと悩んだ。自由に生きる。それはプレシアとマサキの生活が完全にそれぞれ独立したものとなることを意味しているたからこそ。
プレシアの父親を守れなかった自分に、果たしてその資格があるのだろうか。
けれどもマサキは折れた。
埒が明かない話し合いに愚痴ること数度。未来を手に入れたプレシアを、自分の勝手で過去に拘束してはならない。マサキの愚痴に付き合い続けた男はそうアドバイスをしてきた。
そのアドバイスの主こそが、今目の前に立っている男。シュウ=シラカワ。マサキはその言葉に従うことにしたのだ。
「気持ちの整理は付きましたか」
柔らかい笑み。いつも小難しい表情をしている割に、時に驚くほど温かな眼差しを向けてくる。いつからか当たり前となったシュウのそういった表情は、彼がそれだけマサキに気を許した証でもある。
「気持ちの整理っつうか、何だろな。やっぱり離れ難く思っちまう」
「思い出に限りはないでしょうが、そう云われると、明日からの新しい生活を嫌がっているようにも思えますよ」
揶揄い半分、本音半分。マサキの向かいに置かれている椅子の背凭れに手を置いた彼が穏やかに言葉を紡ぐ。
わかってるよ。マサキは椅子から立ち上がった。
最後に残った二脚の椅子は、プレシアとふたりで何度も食事をともにしたダイニングテーブルとセットになっていたものだ。リビングのソファセットよりも良く利用したテーブルセット。三日三晩に渡るプレシアとの話し合いも、この椅子に座って繰り広げた。
プレシアとマサキがこの家でどう過ごしてきたのかを、この椅子は他のどの家具よりも知っている。
だから最後までマサキはこの二脚の椅子を手放さずにいた。けれども、それももう終わりにしなければ。マサキは二脚の椅子を重ねて持ち上げた。外に待っている業者にこれを渡せば全てが終わる。
買い手が決まった館から、マサキは今日中に出て行かなければならなかった。
家を処分するに当たって困ったのが家財道具の処分だった。使い込まれた家具の数々ごと買い取ってくれる物好きがいれば良かったが、中々そうは上手く話が進まなかった。取り立てて目立ったアンティークがなかったことも災いした。国の顔とも云うべき英雄の館を買い取りたいと申し出る富豪は多かったが、彼らはその中身には興味を持たなかったようだ。
仕方なしにマサキは家財道具を処分することにした。
とはいえ、マサキはそういった方面の知識に疎いという自覚があった。まず伝手がない。だからマサキはシュウに頼むことにした。少しでも高く売って、嫁に行ったプレシアの生活準備金に回したい。マサキの願いを聞いたシュウが二つ返事で請け負ってくれたのは云うまでもない。
「ただこの家が自分の家じゃなくなるってだけなのに、寂しく感じるもんだな」
云って、マサキは抱えた椅子を部屋から運び出そうとした。
マサキ――と、再びシュウがマサキを呼ぶ。マサキは背後を振り返った。様々な想いが詰まった紫水晶の瞳がマサキを真っ直ぐに捉えている。その骨ばった大きな手がふと伸ばされたかと思うと、次いでマサキの頬にやんわりと触れてきた。
「沢山の思い出をあげますよ。その寂しさが過去になるぐらいに」
この機会にひとりで暮らすことも考えたマサキだったが、それではプレシアの願いを叶えてやれないような気がした。自由になって。だからマサキは自分の許に来ないかと誘ってきたシュウとともに暮らすことにした。
――自由になって。ねえ、お兄ちゃん。
今頃、マサキが大事に育て上げた義妹は、新しい家庭で幸せに暮らしていることだろう。
マサキはシュウの言葉に、ただ小さく頷いた。そして、静かに顔を寄せてきたシュウの口唇に、そうっと自らの口唇を重ねていった。