聞いたところによりますと

 徹夜続きの生活が祟ったようだ。研究に一段落ついて久しぶりに出た街が、弱った身体に牙を剥いた。帰宅して数時間も経たぬ内に襲いかかってきた悪寒。喉と鼻にも違和感があるとなれば、さしものシュウでも大人しくベッドに入る。
 かといって、たった一日で治るような健康状態でもない。睡眠不足の身体に入り込んだウィルスは、順調に増殖を続けているのだろう。翌朝になっても下がる気配をみせない体温に、シュウは腹を括って休むことを決めた。
 かくて始まった闘病生活だったが、余程性質の悪い風邪をもらってきたのか。熱は四日で下がったものの、咳は七日経っても治まる気配がない。そろそろ医者にかかりどきかとシュウが思い始めた八日目。どうかすると襲いかかってくる眠気に身を任せてベッドの中、浅い眠りの中にいたシュウを叩き起こす物音が玄関から聞こえてきた。
 ドンドンドン。
 こうも遠慮のないドアの叩き方をする人間など他に知らぬ。シュウはガウンを羽織って玄関に出た。念の為に覗き窓を開く――と、予想を付けていたようだ。向こう側から覗き込んでいるボトルグリーンの瞳とまともに視線がかちあった。
「開けろよ」
「そうしたいのは山々ですが」
 長く臥せざるを得ない病状とあっては、健康自慢なマサキであってもひとたまりもないかも知れない。そもそもシュウとて自らの身体の頑丈さには自信があるのだ。それが今やこの有様である。万が一、がないとも限らない。
「いいから開けろって」
 八日の間、咳を続けていたシュウの声は大分掠れてしまっている筈だが、その程度のことなどものともしない声。そういえば彼が風邪で寝込んでいるところを見たことはない――などと思いながら、シュウはドア越しにマサキに自らが風邪で臥せっていることを告げた。
「知ってる。サフィーネたちから聞いた」
 闘病生活三日目にシュウの許を訪れて、結局ドア越しに追い返されていったサフィーネとモニカ。彼女らから話を聞いたらしい。覗き窓の向こう側で口の端を吊り上げて笑っているマサキに、シュウは諦観の念を抱きつつあった。
「最近姿を見ねえと思って、お前が今どうしてるか聞いたんだよ。そしたら熱出して寝込んでるって話じゃねえか」
「それでわざわざ足を運んだとでも? 物好きな」
 シュウはドアを開けた。
 全てを承知の上でここを訪れた以上、うつされることに対する覚悟もあるのだろう。片腕に紙袋を抱えているマサキを家に上げたシュウは、そのままキッチンに向かった彼に「――で、何の用事で来たのです」と尋ねた。
「そりゃあ、飯を作りに来てやったに決まってるだろ」キッチンカウンターに立ったマサキがにかりと笑う。
「どうせお前、碌なもん食ってないんだろ。そんなんだから長引くんだよ」
「甲斐甲斐しいことで」
 シュウはカウンターの上にマサキが並べている食材を見た。葱に春菊、白菜、しめじ、人参。卵に牛肉、豆腐とそこまで目にしただけであれば、すき焼きでも作るつもりなのかと思えたが、何故か袋うどんまで揃っている。
「何を作るつもりです」
 シュウの問いに笑顔を浮かべたままのマサキは答えない。ただ顔を上げてシュウを見た彼は、どこか楽し気な様子で、
「ひっでぇ声してやがるなあ。いい声が台無しだ」
「今日で八日になりますからね」
「そりゃあそんだけやつれもする。病院行ったのかよ」
「熱は下がりましたからね。あとは寝て回復を待つだけですよ」
 この八日間、シュウが鏡の前に立ったのは数えるほどしかなかったが、確かにマサキの云う通り面やつれした自覚はあった。
 こけ始めている頬。睡眠だけは潤沢に取っているからか。目の周りに影響が出ることはなかったが、元来血色の良くない肌が更に色を悪くしている。見事なまでに病魔に侵された面相。五日前にサフィーネとモニカをドア越しに追い返したのも、そうした弱った自分の姿を見せたくなかったからだ。
「なら、さっさとベッドに戻るんだな」
「しかしあなただけを動き回らせる訳には」
「病人が何を云うかね」
 勝手知ったる他人の家と調理器具を揃えたマサキが、慣れた手つきで食材を切り始める。トントントンと規則正しく響くまないたの音に、シュウは自分が入り込む余地はないと覚りつつも、その場から容易に離れられる気もせず。こほこほと咳を洩らしながら、マサキを正面に暫しその手際を眺めていた。
「てかお前、ホントに寝とけよ」
「そうは云われましてもね」
 それはまるで日常のひとコマのような光景だった。迷いなく調理を進めてゆくマサキ。シュウの家のキッチンに立つその姿は驚くほどに馴染んていて、彼が随分と前からここにいたのではないかとシュウに錯覚させるぐらいだ。
「後のことは俺に任せとけって。何、おかしなもんは作りゃしねえよ。うどんすきだよ、うどんすき。栄養つくもん食わなきゃ、治るもんも治らねえだろ」
 それは相手が病人だからこその優しさであるのだろうか。気負いも衒いもなく云ってのけたマサキに、すべきことを持たないシュウは甘えることにした。わかりました。そうとだけ口にしてベッドルームに戻る。そうして、人型を残しているブランケットの中に潜り込んだシュウは、キッチンから聞こえてくる物音を子守歌代わりに眠りに就いた。
 久しぶりに深く寝た気がする。
 シュウが目を覚ますと、三時間が経過していた。見返しても時刻の変わることのない置時計に驚きつつベッドを出てキッチンに向かえば、ついでとマサキは掃除や洗濯まで済ませてくれたらしかった。すっきりと片付いた部屋。キッチンと続きになっているリビングのソファの上で、洗濯物を畳んでいるマサキに、起こしてくれればよかったのに。と、シュウは溜息混じりで言葉を吐いた。
「風邪っぴきは寝るのが仕事だろ。気にすんなよ。それにな、うどんすきは味が染みた方が美味いんだよ」
「その為の時間稼ぎですか」
「そうとも云う」洗濯物の最後の一枚を畳み終えたマサキが立ち上がる。「食うか? 自分で云うのもなんだが、最高に美味いぞ」
 俺も食うぞ。などと云いながら、そうしてキッチンに向かったマサキとともに囲む食卓。シュウの自由奔放な使い魔は、寝込んでいる主人の邪魔をしてはならないことぐらいは心得ているらしく、朝に様子を窺うきりで、日中は外を飛び回っている。
「そういえば、あなたの使い魔は」
「サイバスターで留守番に決まってるだろ。がちゃがちゃ煩いの、お前嫌だろ。ましてや病人なんだし」
 マサキが作ったうどんすきは、この八日間、まともな食事を取っていなかったこともあってか。シュウの弱った気持ちを生き返らせた。とかく美味しく感じられて仕方がない。それは、食の細さに自覚のあるシュウをして、二杯を完食させるほどだった。
「明日は栄養たっぷりの粥を作ってやるよ」
 そんなことを口にしながら片付けをしているマサキは、どうやら今日はここに泊まり込むつもりでいるようだ。すっかり家に根を張った彼の姿にシュウは途惑うも、彼の珍しくも純粋な善意を無下に退けるのも気が引ける。
 お好きにどうぞ。と、シュウは答えた。
 好きにするさ。と、屈託のない笑顔が向く。
 きっと弱ったシュウの姿を見てみたかったといった理由であるに違いない。マサキの来訪の理由にそう見当を付けたシュウは、鼻歌混じりに食器を洗っている彼を横目に、食器棚から常備している風邪薬を取り出した。
 食後の薬を飲んだシュウは、またベッドに入った。
 ひとりで生きるのに慣れたシュウは、むしろ他人の存在などを鬱陶しく感じるようにもなっていたが、ベッドルームの向こう側から人の気配がしてくるのに悪い気はしない。ここまでの八日間で一番安らいだ気分でベッドに入ったシュウは、どうマサキにこの借りを返したものかと考えながら、穏やかな眠りに就いた。