近くに寄ったからという理由でシュウがマサキを誘ってきたのは、ラングランに珍しくも小雨がぱらついた春の或る日のことだった。
「私はウバを」
「俺はコーヒー。ブレンドで」
温暖な気候が最も盛りを迎える季節とあっては、雨ひとつでも影響は計り知れない。マサキはシュウとともに蒸した空気を避けるように街にある喫茶店に入り、それぞれ飲み物を注文した。
大通りに面した窓際のボックス席。空調の効いた店内は、外の世界の肌に纏わり付くような湿気をかなり和らげてくれている。マサキはジャケットを脱いだ。湿気った空気が服の中にまで入り込んで肌を濡らしている。
こんな日もあるよな。傘差す人々が行き交う通りを眺めながらマサキが云えば、何を指しているのかわからなかったようだ。何がです――と、表情ひとつ変えることなくシュウが言葉を返してくる。
「雨だよ、雨。晴れてる日が多いだろ、ラングランって」
「降る時は降りますよ。むしろ降らなければどうやって作物を育てたものか」
「お前、直ぐそうやって話をややこしくするよな」
「情緒がないことを云っている自覚はありますよ」
マサキの視線を追って外を眺める横顔は嫌気が差すほど美しい。筋の通った鼻梁に、細い顎。深く色を湛えた切れ長の瞳に、薄い口唇。そして白磁のように滑らかな肌。どちらかと云えば不健康な顔色なだけに、まるで彫刻のように映る。
「しとしとと雨しとしとと春の雨――ですかね、これは」
薄く開いたシュウの口唇が俳句らしき言葉を吐いたかと思うと、視線がマサキに向く。何だかこそばゆい。マサキはずうっと横目でその横顔を眺めていたことを覚られぬように、そっと視線を窓の外に向けた。
「どういう意味だよ」
「言葉の通りでしょう。静かに振り続ける春の雨。その向こう側に何があるのかを、これだけ深く想像させる句もないと思いますが」
「お前、実は自分に情緒がないこと気にしてるだろ」
「気にせずにいられるほど、人生を諦めている訳ではありませんからね」
「気取った云い回しばかりしやがる」
「そういった相手の誘いに乗ったのはあなたですよ、マサキ」
そこで届けられたふたり分のドリンク。マサキは自分の目の前に置かれた白いカップから湯気が立っているのを見て顔を顰めた。シュウに釣られてつい温かい珈琲を頼んでしまったが、蒸しがちな今日の陽気で手を出すべきではなかった。そう思うも、よもや変えてくれとも頼めない。仕方なしにマサキはカップに口を付けた。
向かいのシュウのカップに視線を注げば、相当にいい茶葉であるらしく、カップの内側に黄金色の輪が浮かんでいる。まるで日食のようだ。眩いリングを視界の端に収めながら、マサキはゆっくりと珈琲を味わった。
シュウはまだリングを愛でている。
冷める前に飲むように勧めるべきかとマサキが思った矢先、どうやら最上級の紅茶を味わう決心を付けたようだ。ややあってカップを取り上げた彼は、ゆったりと香りを嗅いでから、ようやく口元へと紅茶を運んでゆく。
――本当によくよく時間をかける奴だ。
それが彼の嗜好品の味わい方だとわかってはいても、せっかちなマサキとしては焦れずにいられない。「どうだよ、味は」と、せっつくように言葉を吐く。
「美味しいですよ、とても」
「後でひと口飲ませろよ」
「覚えていれば」
そうしてふと訪れた沈黙。彼が所有する家の中であれば、賑やかな使い魔たちなり、テレビなりラジオなり、或いは彼の温もりなりがその気まずさを埋めてくれたものだったが、人目の集まり易い窓際の席ではそういう訳にも行かない。
「案外、外に出るってつまらないもんだな」
「あなたでもそう思うことがあるのですか」
「こう降り続けられちゃ、行ける場所も限られるだろ」
既にかなりの時間をふたりきりで過ごしてきた後だというのに、沈黙が気まずく感じられてしまうのは何故だろう。忙しなく言葉を継いでしまう自分。何を恐れてそうしてしまうのかわからないマサキは、こう思わずにいられなかった。
――所詮は彼の温もりに溺れているだけなのだろうか?
もう少し、シュウが多弁であればいいのだ。そうすればこの寂しさも埋められる。
けれどもシュウはそういったマサキの気持ちなどまるでお構いなしといった様子で、自身の最大の嗜好品である紅茶を寡黙にも味わうばかりだ。
どこであろうとマイペース。それが彼の気質だとわかってはいても面白くはない。はあ。思いがけず出た大きな溜息に、自分のことながら驚いたマサキは目を見開いた。
「楽しくないといった感じですね、マサキ」
「そういうんじゃねえよ」
嫌気が差すほど整った顔立ちが、微かに眉を歪ませる。
瞬間、マサキの背中を汗が伝った。やってしまった――と、後悔しても時間は巻き戻らない。
マサキ。自分を呼ぶ冷ややかなシュウの声が耳の奥にまで潜り込んでくる。絶望的な気分に宙を仰ぎたくなりながらも、視線を逸らせば倍になって返ってくるに違いない。マサキはシュウに視線を重ねた。
「あなたは他に好きな人を作ろうとは思いませんか?」
「何だよ、急に」
「私のような面白味のない人間と付き合い続けるより、もっと性格的に合った女性と付き合った方がいいのではないかと云っているのですよ」
マサキはシュウを睨み付けた。
シュウ=シラカワという人間はいつもこうだ。自尊心や意地を踏み付けるようにマサキの心や体を奪っておきながら、それらに対する執着心を露わにしてみせることがない。それどころか、マサキがいつ自分から離れていっても仕方がないと思っている節さえある。
尊大で自信家な割には、気遣いに欠ける男。彼はマサキ=アンドーという人間の人生を何だと思っているのだろう。軽率にマサキの意思を軽んじてみせるシュウの言葉に、だからこそマサキは瞬時に苛立ちを露わにした。
「お前……幾ら俺が溜息を吐いたからってそこまで云うかよ」
「事実ですからね。云ったでしょう、自覚があると」
「人生を諦めていないって云ったのはどの口だ」
「相手を尊重するぐらいの気持ちはありますから」
まるでマサキの話を聞く気のないシュウの態度と言葉。幾らそれがマサキの態度に端を発していることとはいえ、腹立たしく感じられること他ない。澄ました表情がまた憎たらしい。反射的に手を振り上げたマサキは、彼の横っ面を引っ叩きたくなる衝動を寸でのところで抑え込んで、行き場のなくなった手をテーブルに置き直した。
「あー、もういい加減にしろッ!」
苛立ちはとうにピークに達してしまっていた。
声を上げた瞬間、店内の客の視線が一斉にマサキに集まった。驚きと好奇心が入り混じった眼差し。中にはそれが魔装機神サイバスターの操者だと気付いた風な者もいた。けれどもそれに気を回している余裕は今のマサキにはなかった。
知ったことか。マサキは腕を組んでソファにふんぞり返った。
こうして彼が他の選択肢を提示してくるのを、幾度マサキは耳にしてきたことか! 今日という今日は彼に確りとわからせてやるのだ。マサキは冷ややかな眼差しもそのままに、狼狽える様子もなくカップ口を付けているシュウに向けて言葉を吐き出した。
「溜息を吐いたのは俺が悪かった。それについては謝る」
「謝っているようには見えませんが、まあいいでしょう。それで?」
「つまらないって云ったのも悪かった。それについても謝る」
「わかっているのなら結構」
「だけどな、お前のそういうところなんだよ。そうやって直ぐ俺を誰かに譲ろうとする。俺はお前にとって都合のいい持ち物じゃねえ。それをいい加減わかれって云ってるんだよ」
「退屈そうに振舞っておきながら、これはまた異なことを仰る」
「煩えな。あのな、俺がつまらないって思ってたのは――」
そこでマサキは自分に注がれている視線にはっとなった。そして、どう安く見積もっても痴話喧嘩にしか聞こえないこれまでの遣り取りを思い返して頭を抱えた。これではいつまで経っても、周囲の視線が自分たちから逸れない筈だ。
しかし紙一重のところで気付いた今、徹底的に恥を掻くのは避けられそうだ。マサキは口をへの字に結んでシュウを見上げた。
「続きはないのですか、マサキ」
「店を出たら云う」
「私は今、聞きたいのですがね」
「もうその手には乗らねえ」
シュウの態度に腹を立てるがあまり、思いがけずとんでもないことを人前で口走ること数度。これまでの自らの失態を脳裏に蘇らせたマサキは、決して口を開くもんかと口唇に力を込める。
――だって云えねえじゃねえかよ。
マサキは宙を睨み続けながら、シュウがカップを空にするのを待ち続けた。
――傍にいられないからつまらねえなんて。
そう、マサキはシュウに側に居て欲しかったのだ。何の気なしに触れては言葉を紡ぐ。そうした時間にすっかり慣れきってしまったマサキは、だからこそ、彼と距離を取らなければならなくなると落ち着きを欠いてしまうようになってしまった――……。
「ほら、行きますよ、マサキ。話の続きをするのでしょう」
シュウに続いて立ち上がったマサキは、やけに微笑ましそうな表情の客たちに見送られるようにして店を出た。
――もう絶対こいつの前で溜息なんか吐かねえ。
外はまだしとしとと雨が降っている。次は何処に行こうか。行き先に頭を悩ませるマサキに、最早答えを知っているとしか思えない笑みを浮かべているシュウが、どうぞと開いた傘をマサキの頭上に差し出してきた。