違っていても

 幾分涼しい日だった。開いた窓の隙間から、肌に馴染む風がそよそよと吹き込んでくる。上着を羽織ったぐらいが丁度いい陽気。こういった日こそ読書に限る。小さな円形のサイドテーブルの上に数冊の書を積み、そう決意したシュウが読書に耽っていると、なあ。と、ソファの右隣でテレビを眺めていたマサキが声を上げた。
「昼飯、どうするよ」
「食べに出ますか? あなたが面倒だと云うのであれば、ケータリングでも結構ですが」
「どうすっかねえ」
 どうやら自分ひとりでは決めきれぬようだ。やおらソファから立ち上がったマサキがキッチンへと向かってゆく。きっと、食料の備蓄を確認するつもりなのだ。続く行動をそう予測したシュウは、マサキの後姿を最後まで追うことなく手にした書に視線を戻した。
「スパゲティでも食うか」
 カウンターの上部にある戸棚を開く音。中にあるパスタの量を確認したのだろう。キッチンの奥から聞こえてきたマサキの独り言ともつかない台詞に、彼が一番好きなスパゲティがナポリタンであることを思い出したシュウは、冷蔵庫の中に残されている食材を思い浮かべて、それなら問題なさそうだと胸を撫で下ろした。
 自分の好みに付き合わせるのは主義ではない。
 さりとて、ここがシュウの家である以上、冷蔵庫の中身は普段のシュウの食生活に合わせた食材ばかりだ。ハイカロリーなメニューを好むマサキには、さぞ物足りなく感じられていることだろう。現に彼はいつぞやシュウが作った料理をこう評していた。病人食よりも味気ない――と。
 事前にシュウに都合を尋ねてくることのないマサキの来訪は、アポイントメントがないのが当たり前だった。今回にしてもそうだ。昨日の午後にふらりとやってきたかと思うと、「暫くいるからな」ときたものだ。そうした不意の来訪に備えて冷凍庫に多少の肉は揃えているものの、それも今朝には残り僅かとなってしまっていた。故に、どこかで買い出しに出ないことにはいずれマサキの旺盛な食欲が満たせなくなってしまう瞬間がくるのだが、空腹が勝っているらしい今のマサキにとっては些細なことらしい。隙間が目立つ冷蔵庫を覗き込むと、「お前は何にするよ」と、シュウに向けて尋ねてくる。
 シュウは再び冷蔵庫の中身を思い浮かべた。
 朝をパワーサラダで済ませていることもあって、シュウはそこまでの空腹を感じていなかった。ならば昼は軽く済ませて、夕食をしっかり取ることにしよう。買い出しついでに街で夕食を取る計画を立てたシュウは、いつマサキを誘うか考えながら視線をキッチンの奥に向けた。
「私はインスタントのスープで結構ですよ」
「作り甲斐がねえヤツだな、お前」
「どの道、食料の買い出しに出なければなりません。夕食は街で贅沢に取ることにしませんか、マサキ」
「いいな、それ」
 目的のある外出が気に入ったようだ。材料を抱えてキッチンに立ったマサキが、鼻歌混じりに昼食の準備を始める。時間がかかるのは間違いない。彼にテーブルに呼ばれるまで読書に専念することを決めたシュウは、開かれたままの書へと再び視線を落としていった。
 ややあってリビングにまで漂ってくる酸味混じりの甘いケチャップの香り。仄かにガーリックの匂いもする――それに気付いたシュウは顔を上げた。時計を確認すると、マサキがキッチンに立ってからニ十分ほどが経過している。
「そろそろですか」
「お前のはインスタントだしな。直ぐ出来る」
 テーブルの上に置かれた皿にフライパンの中のナポリタンを移しているマサキに、ならばテーブルに着こう。と、シュウは栞を挟んだ書を積んだ書の一番上に載せた。
 そのままソファを立ち、キッチンに入る。
 皿に山盛りのナポリタン。具はシンプルに玉葱とピーマン、ウィンナーと三種だけだが、量はかなりのものだ。軽く二人前はあるだろう。マサキの食欲に感心しながら席に着き、シュウは彼からインスタントスープが入ったカップを受け取った。それをゆっくりと味わいながら、対面に座ったマサキが早速とナポリタンを頬張るのを眺める。
「それにしてもさ」
 半分ほど一気に食べ進めたマサキが、口の中のナポリタンを流し込むように水を飲み干してから口を開く。
「俺とお前って、一緒にいても滅多に同じことをしないよな。今日もお前は読書だし、俺はテレビを見てばかりだ」
「同じ空間にいれば充分ですしね。何か不満でも」
「世の中の恋人同士ってのは、もっと一緒に何かをするもんだろ」嫌味や皮肉ではなく、単純に疑問を感じているといった口振り。「でも、お前と俺は好みが違うのが当たり前。食事に着るもの、趣味だってそうだ」
「私はそういったあなただからこそ興味を持ちますがね」
「本当かよ。何かひとつぐらいは同じ趣味なんかを持ちたいと思ったりしていないか」
「例えば何を」
「それなんだよなあ」
 どうやらマサキとしては、口にしてみただけで、特別に何かをシュウと一緒にしたいと思っている訳ではなさそうだ。腕を組んで暫く考え込む素振りは見せたものの、そういった方面に自分の気持ちが向かないことに自覚があるのだろう。また直ぐ食事に戻ってゆく。
 シュウはカップに残った僅かな量のスープを飲み干した。そして未だ食事中なマサキに向かって語りかける。
「私からすれば、私と異なる趣味嗜好のあなたは未知なる存在なのですよ、マサキ。そこを識り、そして理解することに楽しさがある。何故あなたがそれが好きなのか……恐らくあなたにも自覚がないその理由を探るのが、私は好きなのですよ」
「やっぱりお前は変わってるよ」
 呆れた風に呟いたマサキが、水のおかわりを取りに席を立つ。
 冷蔵庫を塞ぐ彼の背中は、世界を背負っているとは思えぬ幅の狭さだ。だのに頼りなくは感じない。それがマサキに対する自身の信頼の投影であることを覚っているシュウは、振り返ったマサキに問うように言葉を投げかけた。、
「そうでしょうかね。好きなものを識りたいと思うのは、当然の欲求だと思いますが」
「お前のそれは深過ぎるんだよ。おまけに云えば、脳内で完結させ過ぎだ」
 時に直感で本質を見抜くマサキの、本領が垣間見える台詞。昔であれば癪に障ることもあっただろう。けれども今のシュウはマサキのその手の発言に嫌気を感じたりはしない。ただ、マサキらしいと微笑ましく感じただけだった。
「あなたが私と同じことをしたいと思うのであれば、いつでも付き合う気はありますよ」
「それなんだよなあ」
 再び悩まし気な表情になったマサキが、水を注いだグラスを片手に席に戻ってくる。かといって、不満を感じている様子は相変わらずない。マサキが気にしているのは、世間一般にあるような恋人らしさが自分たちにないことなのだろう。そう見当を付けたシュウの目の前でマサキが椅子に腰を落とす。
 ふわりと動く空気が、ひんやりとシュウの頬を撫でた。街に出る頃には、もう少し厚い上着が必要になりそうだ。熱のこもり易いキッチンにまで及んでいる涼しさにそう感じたシュウは、黙って続くマサキの言葉を待った。
「ないんだよな、そういう欲求。そういうのはあいつらで充分っていうかさ」
「なら、それでいいのではありませんか。私にしても、その役目を乗っ取るつもりはありませんし」
 それはシュウの偽らざる本音だった。
 マサキにはマサキの、シュウにはシュウの世界がある。趣味嗜好をともに楽しめる仲間もそうであったし、同じ目線で議論が出来る仲間にしてもそうだ。わざわざお互いに付き合いを頼まなくとも、満たされる世界がそこにある。
 そもそも、マサキがマサキらしく在れるのは、そうした仲間との付き合いがあるからだ。
 人並み外れた執着心や独占欲の持ち主である自覚がシュウにはあるが、そうした役割の全てを自分に集約したいと思えなかった。それはシュウの成長の表れだ。閉じた世界でふたりきりなどといった夢物語を幸福だと感じられるのは、その関係性に健全さを欠いているからである。マサキとの付き合いが長くなったシュウは、己の執着心や独占欲を乗り越えた先にあるその単純な答えに辿り着いたのだ。
「いいのか、それで。普通の恋人とは大分違うって感じがするけど」
 だからシュウはマサキの言葉にしっかと頷いた。
「あなたも特段そうした関係を求めていないのでしょう。なら、それでいいのではありませんか。肩を並べて読書とテレビ。それも立派なひとつの愛の形ですよ」
「愛のカタチ、ねえ」
 苦笑を浮かべたマサキがフォークを取り上げる。
 きっと、愛という単語に対する照れを捨てきれていないのだ。残ったパスタをひと思いに掻き込んでゆくマサキに、付き合い始めた頃と変わらぬ初々しさを感じ取ったシュウは、ついつい緩む口元もそのままに。やんわりと胸を占める愛しさを噛み締めながら、マサキが食事を終えるのを見守った。