「珍しいこともあうるじゃねえかよ。お前が俺を誘うなんて」
二十ほどのテーブルが並ぶ木の温もりに溢れたホール。一仕事を終えたばかりなのだろう。夕暮れ時を迎えたラングラン王都の大衆酒場には、酒を求める人々でごった返している。
その一角にマサキはテリウスとテーブルを挟んで座っていた。
そこかしこから漂ってくるアルコールと料理の香り。いよいよ空腹がピークを迎えつつあるマサキは、我慢も限界とメニューブックを手に取った。ぱっと開いたページに色合いも鮮やかな一品料理の写真が並ぶ。
旨そうに見えて仕方がない。マサキは盛大に腹を鳴らした。
「折角こうして顔を合わせたしね。偶には君と一緒に食事なんてのもいいかと思って」
取り敢えず、エールで。注文を聞きにきたウエイトレスにそう告げて、首を伸ばしたテリウスが、テーブルに拓かれているメニューブックを覗き込んでくる。
「何、食べるの」
「魚と肉と野菜」
「そこは料理名で云おうよ」
「腹が減り過ぎて決められねえ」マサキはメニューブックをテリウスに突き出した。「お前、先に頼めよ。俺はもう少しゆっくり考えるからよ」
お酒でもどう。と、マサキを誘ってきたのはテリウスだった。
城下でシュウとのんびり大通りを巡って過ごした一日。今日はここまでにしましょう――と、古書に造詣のないマサキを気遣ってか。別れの言葉を述べてひとりで古書店に向かったシュウに、マサキは一瞬、後を追うべきか迷った。
――やあ、マサキ。
その結論が出るよりも先に、姿を現したテリウス。
偶然にしては出来過ぎている彼の出現タイミングに、マサキは彼が自分たちの後をつけていたのではないかと疑ったが、何を考えているかわからない茫洋とした彼の態度は、それを追及させるだけの気力を奮わせてはくれない。
どうせ聞いても躱されるがオチだ。
テリウスに事情を聞くのを諦めたマサキは、断るのも面倒だと、彼に誘われるがまま、大通りに面したこの大衆酒場に足を運んだ。
――どうしても今日済ませないといけない用事があってね。
道中での会話からするに、その言葉を信じるのであれば、テリウスは用があって王都に出てきていたのだそうだ。歩き疲れもあり、そろそろ夕食にしようと思っていたところで偶然マサキを見付けたらしい。
「ナメル貝のアヒージョと、クラムターキーの串焼き。マサキはどっちがいい」
「両方だな」
「君、滅茶苦茶お腹が空いてる説ない?」
「いつもこんなもんだ」
ウエイトレスを呼び付けたテリウスが、アヒージョと串焼きの両方を注文する。その直後にテーブルに届くなみなみとエールが注がれたジョッキ。先ずは乾杯とジョッキを傾けるテリウスに、マサキもまたジョッキを傾けてから、手元に戻ってきたメニューブックに再び目を遣った。
「取り敢えず、カマの炙りとヒラアジの素焼きだろ。それと三種野菜のスティックフライ。後はコブサラダにしとくか。リゾットは〆だな」
テリウスの注文した料理の隙間を埋めるように、魚料理と野菜料理を選ぶ。取り敢えずで頼む量とは思えなかったのか。マサキの台詞にテリウスが目を剥く。それを尻目にウエイトレスを呼び、注文を終えたマサキは、驚き終えたらしく、ちびりちびりとエールを飲んでいるテリウスに向き直った。
「てか、本当に何で俺を誘ったよ」
「何か理由があるとでも思ってるのかい」
「思わずにいられるか。お前、タイミングが良過ぎなんだよ」
「タイミング?」
首を傾げたテリウスは、どうやら直前まで一緒にいたシュウの姿は見ていなかったようだ。どういうこと? と逆にマサキに問い返してくる。
「いや、丁度人と別れた直後だったからな……」
シュウとの蜜月関係が、公となって大分経つ。今更隠す必要はどこにもなかったが、恋に破れた腹いせとばかりに、嫌味や皮肉を飛ばしてくるサフィーネやモニカがいる。彼女らにシュウとのデートの話が届くのは、その相手をするのが億劫になっているマサキとしては避けたいところだった。
だからこそ言葉を濁したマサキだったが、残念なことに、それでテリウスは察してしまったらしかった。ああ。と代わり映えのしない表情で頷いた彼は、「だから今日は出て行くのが早かったのかあ」などとひとり合点した言葉を吐いてから、マサキに真っ直ぐな視線を向けてきた。
「邪魔するつもりはなかったよ。というか、都合が悪かったなら断ってくれてよかったのに」
「別に都合は悪かねえよ。迷ってたところだったからな。逆に踏ん切りがついた」
進む酒。喉を滑り落ちるエールが、身体を火照らせる。
進んでしたい話ではないことが、マサキのペースを速めた。一品、また一品と届けられる料理に舌鼓を打ちながら、更に酒を喉の奥へと流し込む――……
「まあ、マサキも大変だよね。姉さんたち、諦めが悪いから」
「別に諦めが悪いのは勝手だからいいんだけどな。それで俺に当たるのはどうかってな」
「潔くないよね」
「お前、そんな風に思ってたのかよ」
深い話をしたくてついてきたのではなかったが、酒は人の心を緩ませ、そして饒舌にさせる。日頃の鬱憤が溜まっていたこともあってか。気付けばマサキはすっかり愚痴めいた話までもテリウスに聞かせてしまっていた。
「気持ちの問題に前を向けなんて無茶を云う気はないけどね、それと君に当たりが強いのは別の話でしょ」
「そうなんだよなあ。あいつら、俺が強く出られないのをわかってやってるんだろ。そういうとこだっての……」
半分ほど片付いた料理に、マサキは追加で炒め物と煮物を注文した。
酒は既に五杯を数え、ほろ酔いからどこまで飲めるかといった具合に酔いの質を変化させていた。蟒蛇のように酒を煽る魔装機操者たちとの飲み会に慣れきっているマサキは、自身の酒のペースがそれと比べて進んでいることを理解していたが、恐らくは、テリウスが初めて差し向かいで飲む相手であるからだろう。硬くなる身体。漲る緊張感がペースを緩めることを許してくれない。
「てかお前、何であいつについて行こうと思ったよ。そんな面倒見がいいタイプじゃないだろ」
「あはは。そうだね、シュウは手厳しいよ。でも、面白いでしょ、彼」
回りに回った酒が、どんどんマサキの口を軽くさせる。平常時であれば、きっと口にしない疑問。自分でも酔っていると自覚出来るぐらいの酩酊感に包まれながら、ひとり、サフィーネやモニカとは違った想いでシュウについていくことを選択しただろうテリウスに、長年感じていた疑問をぶつける。
「お前のその感覚がわからねえ。面白いか、あいつ」
「興味の向き先が違うのかな。それとも、もしかしてシュウは、君相手だとまだちょっと格好つけたりしてる?」
「格好つけ、か……あいつ、普段から気障ったらしいしな」
「愚痴なんだか惚気なんだかわからないね。まあ、好きな相手を目の前にすると格好つけたくなるのは男心だしね」
「何だそれ。お前、なんかあいつの知らない一面を知ってるみたいな口を利くな」
「あれ、もしかして妬いてる?」
「妬くに決まってるだろ」マサキはグラスに半分残っていたスクリュードライバーを煽った。
そしてウエイトレスを呼び付けると、続けてもう一杯。今度は軽めのシャンディを注文する。
ついでと開いたメニューで目に付いた料理を三品追加で頼むと、マサキがとことん飲んで食うつもりでいるとようやくテリウスは気付いたらしかった。まだ食べるんだ。と、半目がちな目を開いて尋ねてくる。
「短くない付き合いなんだぞ」
「知ってる」
「お前が思ってるよりもっと長い」
「知ってるよ、マサキ。だってシュウの態度を見てればわかったしね」
その彼の感想を無視して続けたマサキに、テリウスは妙な表情を浮かべてみせた。
困ったような、面白がっているような笑い顔。それがシュウとの付き合いの長さを誇っているように映って見えるのは、マサキの酔いがそれだけ進んでしまっているからでもあるのだろう。そう、マサキが知らない王宮時代のシュウを知っているテリウスは、だから性質の悪くなったマサキの酒を軽くいなしてみせるのだ。
わかってしまうからこそ、面白くない。
マサキはひたすらに腹を膨れさせた。酒を飲み、料理を抓む……育ち盛りの自分が良く食べる方だという自覚がマサキにはあったが、その限界を超える勢いで飲んで食べた。
「あー、食った」
「君、大丈夫? 食べてるとはいえ、結構飲んでるけど」
最後の愉しみに取って置いたリゾットを掻き込んで、流石にもう入らないと椅子に仰け反る。ハイペースな酒は、そろそろマサキの足腰をまともに立てなくするぐらいには、マサキの身体を酔わせきってしまっていたが、マサキの心には後悔はない。
「まあ、帰れるだろ」
「君の場合、放っておくと迷うから」
「迷ってる内に、酔いも醒めるさ」
ここに来てからの時間は二時間を数えた。
「何処に行くつもり」
「トイレだ」
流石にそろそろお開きかと、マサキはトイレに向かうことにした。ところが椅子から立ち上がった途端、世界がぐるりと一回転した。これは酔ったな。わかっている事実を改めて確認したマサキは、一歩も動けない身体を力なく椅子に沈めるしかなく。
「大丈夫、じゃないね」
「酔った」
「その台詞、これで五度目くらいだよ」
苦笑しきりなテリウスが、仕方ないなあと口にして立ち上がる。どうやら肩を貸してくれるつもりであるらしい。ほら、立って。彼の手で腕を引かれたマサキは、尿意の近さも手伝って素直に席を立とうとした。
「満足しましたか、マサキ」
すっと伸びてきた手がテリウスの身体を退けたかと思うと、マサキの身体を抱え込んだ。
甘い麝香の香り。嗅ぎ慣れた匂いがマサキの身体を包み込む。シュウの腕にしがみ付いたマサキの背中を、彼の大きな手がゆっくりとさすっている。
「お迎えかい、シュウ」
「あなたも人が悪いですね、テリウス。こんなになるまで止めないとは」
「君の従弟だしね。それに来ると思ってたし」
「明日のカリキュラムは覚悟しておくのですね」
シュウの肩口に顔を伏せているマサキには、彼らがどういった表情で会話をしているのかは見えなかったが、その口ぶりから察するに、決して対立しているといったネガティブな様子ではなさそうだ。
それが彼らの歴史を物語っているようにマサキには感じられたが、事情はどうであれ、こうしてマサキの危機に駆け付けてくれたシュウがいる。ならば、もう何にも拘る必要はない。行きますよ、とシュウに声を掛けられたマサキはそれにこくりと頷くと、彼に力一杯寄りかかっていきながら歩き出した。