不意に降り始めた雨は瞬く間に強さを増し、水のカーテンとなって街を覆い隠した。
さして濡れない内に、喫茶店の軒下に身体を収めることが出来たのは幸いだった。マサキはすることもないままに街並みを眺めていた。
次第に弱まる雨足。通り雨だったかと空を見上げる。遠くにうっすらと青空が広がっている。その手前を流れゆく雲。重苦しい雨雲は東から西へと、次第に遠ざかってゆくようだ。
それはやがて雨が止むことを予見させる空模様だった。
マサキは雨にけぶる街並みに視線を戻した。人通りの絶えた街角。ふと通りの向かいの洋品店の店先で雨宿りをしている人影と目が合った。嫌な偶然もありやがる。それが誰かマサキが気付く頃には、相手は通りを小走りに横切りながらこちらへと向かって来ていた。
「何だよ、わざわざ。雨に濡れてまでこっちに来ることもねえだろ」
「ひとりで雨が止むのを待つのも退屈だったのですよ」
今時子供でも口にしないだろう云い訳を口にして、マサキより年嵩の男は僅かに濡れた髪を掻き上げてみせた。
眦の切れ込みも鋭い意志に満ちた瞳。白い陶器のような肌を、粒となった雨の雫が滑ってゆく。育った世界が違えば、生きる世界も違う男は、どうしてかマサキに含む所がある様子だった。きっと自分に追いかけられたことを根に持っているのだろう。時に辛辣に言葉を繰り出す男の一歩退いた物の見方を、マサキはあまり気に入っていなかったからこそ、男が自分に絡んでくる理由をそう感じずにはいられなかった。
「長くはならねえだろ、この空模様じゃ。そこに青空が見えてるんだぜ」
「どうせ通り雨、なのはわかっていますよ」
わかっていながら折角濡れずにいられた身体を、雨に晒してまで自分の所に飛び込んで来たのかと、マサキは言葉にしようとして――それが彼の行動の理由を詮索する行為にしかならないと口を噤んだ。
「かといって知己の人間を目の前にして、挨拶もなく素通りするのも後味が悪い」
「放っておいてくれて良かったんだけどな」
「あなたはいつもそうだ」彼は声を上げて嗤った。「私を毛嫌いする」
何故かを知るのが怖いことがある。
それが憎しみであればやり易い。矢を払うには剣だ。横っ面を引っ叩いてくるような人間に手加減は無用。真正面から殴り返してやればいい。自らのゆく道に迷いを持たぬマサキは、だからこそ自らの在り方にも自信を持っていた。
けれども彼は違う。嫌味にもそうっと、まるでそれが自らの使命だと云わんばかりに、窮状のマサキに手を差し伸べてくる。それが誰に対してもであれば、性質のひと言で片付けられたものだっただろう。確かに他人をも諭してみせる男ではあったものの、それは行きがけの駄賃のようなものだ。わざわざ足を運んでまで、他人に施したりはしない。それは仲間たちの揶揄する言葉からしても明らかだった。
――この男は、自分を特別視している。
どう相手をすればいいのか迷う男。けれどもいざ話をすれば、水が流れ出すように会話が連なる相手。
マサキは横目で隣に立つ男の表情を盗み見た。頭半分は高い長躯が自分を見下ろしている。そのまま視線がかち合いそうになって、慌てて視線を街並みに戻せば、新品の雨靴とレインコートにはしゃぐ幼女の姿があった。
「ほら、そんなにはしゃいだら雨に濡れてしまうでしょ」
母親らしき女性が窘めてもどこ吹く風。幼女は声を上げて通りを走り回っている。
「あんな日が、あなたにもありましたか、マサキ?」
突然にそう尋ねてきた男に、そうだな……マサキはその答えを明瞭りと言葉にするのを避けた。最早思い出せない程に過去のこと。幸福だった時間を振り返ることを、いつの間にかしなくなっていたマサキは、幼かったあの頃の自分の感情までもを思い出せなくなってしまっていた。
きっと、それは今が充実しているからなのだ。
身の回りの世話に口煩い義妹がいて、騒々しい仲間がいる。敵なのか、味方なのかわからないこの男だって、マサキの生活を形作る要素のひとつだ。そう、いつだって彼らはマサキの日常に存在している。
「可愛らしい姿ですね。雨にはしゃぐ子供は一定数いるようだ」、
「面白いんだろ。子供ってのは、何でそんなことにってぐらいに、些細な変化を面白がる生き物だ」
「あなたもまだ子供、なのですがね」
「年齢で量るもんじゃねえだろ、そういうのはさ……」
「まだまだ精神的に幼いと云っているのですよ」
「ホント、お前って上からだよな」
以前ほど疎ましく感じなくなった男と、だからこそ他愛ない会話を重ねられるようになった。
幼女が通りから姿を消しても、途切れることのない男との会話。話の切っ掛けさえあれば、それだけでよかった。マサキには彼と共有している過去が幾つもあったからこそ、その時間の分だけ、男に対して気安くなれるのだ。
「そろそろ雨も止みそうですね」
「思ったより長く降りやがった。お前はどうするんだよ、これから」
ぽつぽつと降り注いでいた雨が、やがて静かに止む。
人気もまばらだった通りに、方々の店の軒下から人々が流れ込んでくる。程なくして、雨が降る前の姿を取り戻した通りに、そろそろ頃合いとマサキもまた軒下から通りに出た。
「じゃあ、俺は行くぜ」
「ええ、マサキ。またいつか」
会う約束などしたことのない相手は、けれども偶然に導かれるように、様々な形で幾度も顔を合わせてきた。戦場、街角、平原……それはラングランに限らない。地上と地底とふたつの世界に縁を持つふたりは、狭くない世界で引き合うように幾度もの出会いと別れを繰り返してきた。今のこの瞬間もそのひとつ。だからきっと、その再会の約束は果たされる日が来るのだろう。
マサキは男の言葉に応じるように、軽く右手を上げた。
敢えて言葉は吐かぬまま、そうして雑踏の中へと。振り返ることもせずに暫く歩み続けたマサキは、雨を打ち払った日差しを受けながら空を見上げて、「雨も、悪くないな」と、呟いていた。
140文字SSのお題
貴方はシュウとマサキで『雨も、悪くない』をお題にして140文字SSを書いてください。