零れ落ちる理性

 いつまでもこの手を離せずにいる。
 マサキは隣にいる男に気取られないように、密やかに息を吐き出した。何度目の深呼吸。こんなことをしている場合でないのはわかっていたが、彼の柔らかな手から伝わってくる温もりは、マサキに容易にその手を振りほどかせてはくれなかった。
 絡められた指の深さに跳ね上がる鼓動が彼に伝わらないように、肩を寄せ合う岩棚の上。マサキは落ち着きを取り戻すべく、深く息を吐いては吸ってを繰り返した。だのに一向に収まる気配を見せない拍動。こうして手を重ね始めてから、どれだけの時間が経ったものか。
 珍しくも戦闘訓練をしようなどと思い立った朝。暇を見付けては訓練だ修行だと忙しないヤンロンから、戦闘訓練に適している聞いていたスポット。一時間ほどかけてそこの辿り着き、山に囲まれた丘陵地帯にあるそこそこの広さを誇る平地にグラフドローンを呼び出したマサキは、先ずはウォーミングアップと右に左に。散開しているグラフドローンの間を、素早く行き来しながら一機、また一機と片付けていった。
 傾斜のなだらかな丘陵地帯に逃げ込んだ最後の一機を、自分に有利な地形に誘い出すのには、さしもの風の魔装機神でもそれなりの手間がかかったものだが、所詮はグラフドローン。最終的にはまるで撃ってくれと云わんばかりに丘の真上、ポジションを定めたグラフドローンに、マサキは容赦なく剣戟を浴びせかけた。
 反撃を待つまでもない。あっけなく墜ちた十機ばかりのグラフドローンに、次はどうしようかとマサキは頭を悩ませる。
 平地に丘、山もあれば川もある。傾斜に崖。豊かな地形に恵まれたこの地域は、ヤンロンが勧めるだけあって、確かに戦闘訓練に適している……グラフドローンだけを相手に訓練を済ませてしまうのが勿体なく感じられたマサキは、もう少し歯応えのある標的が欲しいところだが、と、サイバスターの戦闘訓練プログラムを弄り始めた。
 標的のレベルを上げられないのであれば、サイバスターの性能を下げればいい。設定画面を開いたマサキは、移動速度にリミッターをかけ、関節駆動域を狭める。そうして試しにサイバスターを動かしてみて、これならグラフドローン相手でも、そこそこの戦いが出来そうだと思った刹那。
「……誰かが魔装機を動かしていると思えば、あなたでしたか」
 索敵機能レーダーに反応がないままに、さしたる距離でもない位置に姿を現したグランゾン。何を目的に姿を現したのかは不明だが、きっと思慮深い男のこと。マサキを見かけから、などといった短絡的な理由で姿を現わそうなどとは思いもしまい。
「魔装機に何の用だよ」マサキはシュウに尋ねた。
 簡単にその思惑を打ち明けない男は、気紛れにマサキの目の前に姿を現わしては、厄介事を引き起こして去ってゆく。
 グランゾンに内包された特異点は、とうに彼によって崩壊させられた筈であるのにも関わらず、変わらず数多の事象の中心に在る男。シュウ=シラカワ。そういった星回りに生まれ付いたなどといった巫山戯た理屈が飛び出しても可笑しくはないまでに、騒動の渦中にあり続ける彼は、「大したことではありませんよ」と、マサキの問いかけにモニターの向こう側で静かに嗤った。
「サフィーネから、この辺りでグランヴェールが戦闘訓練をしていることが多いと聞いていたものですから。偶には情報交換をと思いまして」
「そりゃあ残念だったな。居たのが俺で」
「私があなたにそうした役割を期待していないと思い込むのは、あなたの良くない思考の癖ですね、マサキ。まあ、いいでしょう。努力嫌いのあなたにしては珍しく訓練に励んでいる様子。何でしたら、私が相手をして差し上げましょうか」
「珍しいこともあるもんだ」
 マサキはモニターに映し出されているシュウの顔をまじまじと見詰めた。笑みの消えた口元に、厳めしくも映る面差し。どうやら伊達や酔狂で云い出したことではなさそうだ。
 だったら、とマサキは口元を歪ませた。時に魔装機神をも凌いでみせる不条理な性能を誇る機体、魔神グランゾン。ラングランの戦神として立つ風の魔装機神の相手に、これ以上の相手もない。ましてやデチューンを終えたばかり。リミッターのかかったサイバスターの性能で、どこまでその性能に迫れたものか。
 ――それを俺は見たい。
 ハンディキャップを背負っての戦闘という誘惑。戦闘訓練だからこそ許されるシチュエーションに、マサキの血はどうしようもなく騒いだ。
「丁度いい。グラフドローンの物足りなさに、サイバスターの性能を下げたところだ。これでグランゾンとどこまで渡り合えるか試してみてえ」
「流石にそれは慢心が過ぎるのでは? 私のグランゾンですよ。如何に風の魔装機神であれど、本来の性能なしにダメージを与えられるとは思えませんがね」
「云ってくれやがるな。まあ、てめえ相手だ。半日かかってでも思い知らせてやるよ。剣聖の名も、風の魔装機神の名も、伊達じゃないってな!」
 気炎を吐いて、マサキはコントロールを開始した。
「シロ、クロ、行くぞ! 遅れを取るなよ!」
「思い知るのはあなたの方ですよ、マサキ!」
 例えるならば、今のサイバスターの性能は、ランクの下がった正魔装機に等しい。それをマサキは自らの技量で押し上げてみせると吠えた。駆動域を狭められたサイバスターの関節部が軋む。鎖で縛られているような閉塞感を感じながら、それでもマサキはコントロールを続けた。
 ――それならそれで遣り様がある。
 マサキは動力炉のタービンを絞った。コンプレッサーの内部にエネルギーを溜め込むことで、瞬間的な出力を上昇させる。タービン開閉のタイミングを細かくコントロールする必要はあったが、これで通常時のサイバスターに匹敵する反応速度を得られる筈だ。
「云いやがれ! 行くぜ!」
 ラングランに召喚されたばかりの頃、ジャオームを駆って戦場へと赴いた日々。非力な魔装機を効率よく操作する為に身に付けた技術を駆使しながら、マサキは早速とばかりにグランゾンの懐に飛び込む。
「伊達に魔装機を長く扱ってきた訳ではなさそうですね!」
「当たり前だ!」
 先ずは一太刀。振り下ろした剣を、前腕で受け止めきってみせたグランゾンが、驚異的なエネルギーでサイバスターを振り払う。「一筋縄では行かねえのはわかってんだよ!」ノックバックに揺らぐ機体。転倒しない為にも平衡感覚は失えない。忙しなくキーコントロールを続けながら、グランゾンから距離を取ったマサキはサイバスターのバランスを整える。
「任せましたよ、チカ!」
 その隙を突いてグランゾンから射出される長距離射程武器。追尾機能を備えた攻撃を避けるのには、それなりの反応速度が必要だ。コンプレッサーに溜め込んだエネルギーを解放したばかりのサイバスターでは、出来る動きに限りがあった。それならばダメージを最小限に食い止めるまで。マサキは装甲の厚い胸部に攻撃を受けるべく、サイバスターの関節を駆動させた。
「そのぐらい見通せずして、どうして戦えたものか!」
 弾道の軌跡が変わる。不意にうねりをみせたかと思うと、潜り込むように腰椎部へと。
 機体の耐久値や剛性に変化を加えていないとはいえ、元来が弱点ウィークポイントである関節部にグランゾンの攻撃を受けて無傷でいられる筈がない。「やりやがったな!」警告音アラートが鳴り響くコントロールルームで、引くか押すかの選択を迫られたマサキは、それまでに叩いた大口に意地を張らずにいられずに。そう簡単に白旗を上げてなるものかと、絞り切ったままのタービンを解放した。
 風よりもはやく。グランゾンの猛攻を左右に避けながら、再度。接敵を果たしたマサキは、もう一撃とグランゾンに斬り込んでゆく。
 ままならない上腕の関節は、剣の振り上げにも影響を与えていた。思ったように振り上げられない剣に、マサキは全身の関節部を同時に駆動させた。モーションの幅を広げることで、一撃に重みを加える。鈍い衝撃音。図らずしてサイバスターの全身の力が込められることとなった攻撃が、重くグランゾンの肩にヒットする。
「この程度で私のグランゾンが墜ちるとでも思いましたか!」
「うるせえよ! 喋ってる暇があるなら戦え!」
 タービンを絞りつつ、グランゾンから距離を取る。
 大味な戦い方を好むマサキとしては、滅多に使う戦闘技術ではなかったものだが、それでもこれだけの効果を発揮したものだ。タービンの開放タイミングと全身の関節駆動のタイミングを合わせれば、更なるダメージも期待出来るだろう。
 それにはかなりの繊細な操作が必要になるだろうが、対グランゾン戦というハンディキャップを覆すのに、四の五の云ってはいられない。やれない、ではなく、やってみせる、だ。一瞬の判断が勝ち負けを左右する戦いに迷いは禁物。マサキは己を奮い立たせると、一斉に各部のコントロールを開始した。
 胸部に砲弾用のエネルギーを集めているグランゾンに向けて、サイバスターを突進させる。
「遅い!」
「甘いんだよ!」
 圧縮されたエネルギーの塊がグランゾンから撃ち放たれる。
 タービンを解放し、全身の関節を一度に異なる方向へと駆動させる。休む間もないコントロールに指が悲鳴を上げるが、知ったことか。マサキはひたすらにコントロールパネルを叩き続け、サイバスターに構えた大剣で砲撃を押し払おうと試みた。
 とてつもない加重。操縦席に押し付けられた身体が悲鳴を上げる。歯を食いしばってマサキは耐える。押し切れればこっちのもの。ヒステリックにがなり立てる警告音アラートの数々に、もう少しだけ踏ん張れと、マサキはサイバスターに檄を飛ばす。
 けれども、弾かれる大剣。脚部を地に食い込ませて耐えていたサイバスターの機体は、そのまま宙を舞った。「くそ……っ!」激流のように流れてゆく視界。コントロールを失ったマサキは、操縦席から投げ出されないようにするのが精一杯だ。
 防ぐ手立てもなく、背中から大地へと沈み込んだサイバスターに衝撃は限りない。バッククラッシュにマサキの視界が反転する。上手く世界を捉えられなくなったマサキには、最早、何がどうなっているのか把握することすら難しく。
 次の瞬間、どうやら機体の限界耐久値を超えたようだ。マサキの身体はサイバスターのコントロールルーム内から放り出されていた。
 瞬時にして大地に姿を現わしたマサキの身体は、風圧に流されて草むらを滑った。サイバスターは既に稼働を止めていたものの、グランゾンの動力炉は動き続けている。流され続ける身体。平原から斜面へと向きを変え、遥か下方に谷底が覗く岩肌を転がり落ちる。そして、三メートルほど下にある岩棚に引っ掛かって、ようやく止まった。
「痛ぇ……」
 しこたま岩棚に打ち付けた身体が、痛みに悲鳴を上げている。
 それでも最悪の事態は免れたようだ。痛みは相当なものだが、何処かを折ったり切ったりしたような感触はない。強いて云うなら、手の甲を擦ったぐらいか。こういった時の為に各所に技術が詰め込まれている戦闘用のジャケットとブーツ。それらは充分に用途を果たしたとみえて、見るも無残な有様だった。
 ――シロとクロは何処まで流されただろうか……
 歯を食いしばりながら、岩棚に身体を横たえたままの姿勢で、マサキはやがて引くだろう痛みを堪え続けた。マサキ、と、程なくして頭上から響いてくる呼び声。流石に遣り過ぎたと感じたのだろう。谷間の切れ目から顔を覗かせたシュウの表情は、冷静な男にしては珍しくも明るいものではなかった。
「シロとクロは?」
「わかりませんね。あなたよりも体重が軽い分、遠くまで流されてしまった可能性はありますが」
「変なことになってなきゃいいんだけどな」
「所詮は使い魔ですよ、マサキ。魔法生物である彼らよりも、先ずは自分の身体の心配をすべきでしょうに」
 そのまま「掴めますか?」と手を差し伸べてくるシュウに、痛みを堪えながら立ち上がったマサキは、つま先を立たせてその手を掴もうと試みた。けれども、触れ合わぬ手。空を掻いて虚しく岩肌を打つ自らの手のひらに、マサキは舌を打たずにいられない。
「跳ねてみても届きませんか?」
「無茶だろ、お前。それだったらロープを用意した方が」
「生憎、グランゾンにザイルは積んでいないのですよ。もし、あなたのサイバスターにあるというのであれば取ってきますが」
「山登りは趣味じゃねえ」
「そういうことですよ。町まで下りてザイルを買うという手もあるにはありますが、それでしたら救難信号を発した方が早い気もしますしね。どうします、マサキ? あなたが待てるというのであれば、どちらかの手段を取ることにしましょう」
「それだったら、最後にもう一度だけチャレンジさせろよ」
 諦めの悪い、と口にしながらも、吝かではないようだ。そこでようやく笑顔を見せたシュウが、もう一度マサキに手を差し出してくる。限界まで腕を伸ばしてくれているのだろう。先ほどよりも近くなったように感じられる手に、これならもしかしたら届くかも知れない。マサキはそう思いながら、岩肌に沿わせた身体を伸ばした。
 互いの指先が互いの指先を掴み合う。もう少しだ。マサキはつま先を伸ばして手のひらを深く合わせた。シュウの手の力が籠る。その力強さにマサキはほっと安堵の息を洩らして、先ずは一歩と岩肌に足をかけた。
「ゆっくりと、焦らずに登ってください。安定性のある姿勢をしている訳ではありませんから、バランスが崩れれば私もそちらに落ちてしまう可能性が」
 云われた先から滑る足。岩肌を三歩ほど登っていたマサキの身体が沈み、岩棚にて盛大に腰を打つ。
 どうやらその衝撃に耐え切れなかったようだ。繋いだ手もそのままに。シュウの身体が続いてマサキの身体の上に降ってくる。
 雪崩れ込むようにして止まる身体。マサキの身体がクッションになった分、ダメージが少なかったのだろう。即座に身体を起こしてみせたシュウは、衣装に付いた土埃を払いながら、近くて遠い切れ間を見上げて、チカ――と、自らの使い魔の名を呼んだ。
 はいはい、と威勢のよい声を上げながら、宙を舞ってひらり。シュウの肩に留まってみせたチカは、姿を現わすなり、「ご主人様とあろう方がみっともない」盛大な嫌味を口にした。
「これぐらいの傾斜、登れてなんぼでございましょうに。剣の腕が泣きますよ」
「上から見下ろすほど、この岩棚は広くないようですしね。安全策を取った方がいいでしょう。グランゾンから救難信号を発してください。チャンネルはいつも通りに。どうせ彼女らのことだ。さして遠くもない場所にいることでしょう」
「そう都合よく話が進みますかねえ。まあ、他に策もありませんし、やってはみますけど」
「それが済んだら、シロとクロを探してください。無事だとは思いますが、万が一もありますし」
「お優しいことで。とはいえ、喧嘩を吹っかけたのはご主人様の方ですしねえ。あたくしとしましては、余計な仕事が増えたことを恨みたくもありますけど、これも使い魔の務め。命じられたことはきっちり果たしてみせますよ」
 云うなり空へと羽ばたいたチカに、シュウは届かぬかも知れないのを承知といった様子で、「あなたの働きに期待をしていますよ、チカ」と呟いた。
 それから大分経つ。
 痛みの引かない身体を岩肌に寄り添わせて座りこけているマサキの隣に、自らの居場所を求めたシュウが腰を落としてきたのは、チカが飛び去ってそう時間も経たぬ内のこと。
「痛みますか、マサキ」
「当たり前だ。サイバスターの操縦席から放り出された上に、風圧でここまで流されてるんだ。これで痛くも痒くもなかったら、その方が問題だろうよ」
「減らず口が健在のようで何よりですよ。その調子なら直ぐに痛みも引くことでしょう」
「本当に厭味ったらしい奴だよな、お前……」
 はあ、と溜息を洩らして、マサキは頭を垂れた。暫くの間。口を開くこともなく座しているだけのシュウに、「……悪かった」とマサキは謝罪の言葉を口にした。いかに跳ねっ返りの強い性格であっても、人並みに反省は出来る。それまでの経緯いきさつがどうであれ、今ふたりが置かれている現状を招いたのは、自らの力を過信し過ぎたマサキの迂闊さが原因だ。
 後悔が苦い。悔やんでも悔やみきれない自らの愚かさを、マサキはじっと噛み締め続けた。そんなマサキの胸中を推し量ったのだろうか。シュウは黙したまま、目の前に広がる雄大な景色から視線を外すこともせず。
 暫く、何事もなく流れた時間。
 その終わりは突然だった。
 何の前触れもなく、シュウの手がマサキの手に重なった。やけにリアルに感じられる肌の温もり。不意を突かれた形になったマサキは、咄嗟には上手く反応出来ずに。
 ――もしかしたら姿勢を変えたついでに、偶々重なってしまっただけのことかも知れない……
 そう考えてしまうほどに動揺してしまったマサキの沈黙を、恐らくシュウは同意と受け止めたのではないだろうか。次の瞬間、絡められた指に、流石にマサキは肩を震わせた。
 時折、マサキの指先を弄ぶシュウの指が、憎たらしく感じられて仕方がない。
 指を絡めて手を繋いでは、物足りなさを埋めるように指先を弄ぶ。そうしてまた深く手のひらを合わせ、指をを絡めてじっと。言葉もなく繰り返されるシュウの一連の動作に、湧き上がってくる得体の知れない感情。甘やかに胸を占めるそれに、マサキはどう言葉を発したらいいかわからない。
 そうして、今。
 焦れるマサキの様子を察したのだろうか。嫌? と、ようやくシュウが言葉を吐く。まるでマサキが拒絶をしないと見越しているかのような甘ったるい囁き声。限りのない誘惑に抗い切るのは勇気が要る。返答に困ったマサキは、首を横に振ることも縦に振ることも出来ぬまま、マサキ――、と、次いで降ってきた呼び声に、仕方なしに顔を上げる。
 その瞬間の、自らを見下ろしているシュウの面差し!
 切れ長の眦の奥に硝子玉のような瞳が眠っている。怜悧にも映る眼差しでありながら、ぞっとするほどに美しい。どうやっても目が離せそうにない。マサキはそのまま暫く、ただぼうっとシュウの面差しに見惚れていた。
「無防備ですよ、マサキ」
 その顔が緩やかに近付いてくる。
 絡め合った指の合間から、理性が零れ落ちる。音もなく溶けだした心にマサキは無言で目を伏せ、重ねられた口唇の温もりを静かに味わった。
 風のささめき……草木のざわめき……水のせせらぎ……耳を擽っていたそれらの音が途切れ、しんと静まり返った。自らの拍動だけが響き渡る暗がりの中で、重なり合った口唇だけが互いを繋ぐよすがとなる。何を思っての行為なのかなど、最早どうでもよかった。マサキは我を忘れてその口唇を貪った。
 人の温もりというものは、こんなにも心を焦がすものであるのだ。
 口唇の谷間から舌を滑り込ませ、互いに深く絡め合っては僅かに離れ、赤唇の形を確かめるように辿り、また口唇を重ねてはその谷間に舌を差し入れる。そうして繰り返される口付けは、決して全てを忘れてしまうほどに激しくマサキを攫うものではなかったものの、ひとときの欲望に溺れさせるには充分に足るものだった。
 やがて、そうやがて――触れた時と同じく緩やかに離れていった口唇に、マサキはゆっくりと瞼を開いた。途端に音と色に溢れ出す世界。あれほどに美しいと感じた男の面差しは、いつものような厳めしさでそこにある。
「来たようですね」
 動力炉のモーター音。救難信号を受信した救援のものであろうか。時に甲高く、時に平坦に。山間に響き渡る音が近付いてくる。思ったよりも早い救助劇になりそうな気配に、ほうっと。マサキは今度こその安堵の溜息を洩らす。
「あのモーターの回転数の上げ方は、サフィーネですね。相変わらずピーキーな調整をする」
 誰にともなくシュウが口にした次の瞬間、マサキ! と耳慣れた声が降ってきた。呼ばれるがままにマサキが頭上を見上げると、そこには必ずしも仲良くとは行かない筈の三匹の使い魔の姿。揃いも揃って、谷への切れ間から顔を覗かせている。
 きっとそう遠くない内に、サフィーネもここに辿り着くだろう。マサキは影に隠れるようにシュウの手を握りしめた。惜しむ気持ちはあれど、いつまでもこのままでという訳にはいかない。そのマサキの気持ちを感じ取ったのだろうか。一瞬、深く指を絡めてきたシュウの手が、そうっと剥がされる。
 ――偶にはこういったハプニングも悪くない。
 そしてマサキは頭上に広がっている青空を眺めて、そろそろと近付いてきているシュウとの別れを振り切るように、明日はどこに行こうか。過ぎてゆく今日にそう思った。

あなたに書いて欲しい物語3
ゆりさんには「いつまでもこの手をはなせずにいる」で始まり、「ぞっとするほど美しかった」がどこかに入って、「明日はどこに行こうか」で終わる物語を書いて欲しいです。