風の抱擁

 優しい彼女は夢を見る。
 数多の魂が眠る世界で、精神の揺り篭に揺られながら。

 水面のように揺らぎながら瞳に世界を映していた。
 滅多に下位次元に顕現しない彼女は、けれども自らが精神を分け与えている機体と、それを手足のように操ってみせる操縦者には興味を持っていた。マサキ=アンドー。彼女からすれば年若いどころか、赤子よりも幼く稚い存在は、どうしてだろう。常に平穏を保っている彼女の心を擽ったものだ。
 そろそろ少年が活動を本格的にしようとしている時刻。今日も今日とて仲間に囲まれた賑やかな生活を送っている少年は、やがていつものようにひとり。風の魔装機神を駆ってラングランの大地へと駆け出してゆく。 
 ちっぽけな人間の瞬く間に過ぎる生の営み。彼女にとってはそうした認識に過ぎない世界を、こうして偶に覗き見るようになったのは、彼女の中に生まれた少年に対するささやかな好奇心の所為であった。自らが宿る万物に恵みを与える以外にすることのない彼女にとって、日々とは無為に過ぎてゆくも同然のものである。だからなのかも知れない。彼女はまるで日課のように、少年の生活をその瞳に映し続けた。
 人間にとっての平和というものは、長い歴史の中では仮初めに過ぎぬほど長くは続かぬもの。精霊たる彼女はそれを知りながら、敢えて下位次元の生き物たる人間に手を貸すことを選んだ。まるで変化の起こらぬ自らの日常に、波風が立つことを期待しているかのように。
 ――今日は何処に行くの?
 届かぬ言葉を少年に囁きかける。
 こうして何度も彼女は少年に語りかけ続けた。何処に行くの? 何をするの? 何を考えているの? 今あなたが抱いている感情は何? 時にその感情が少年に伝わることもあったけれども、それは極稀に起こる程度の奇跡としか呼びようのない共鳴ポゼッションの時に限られた。それでも、風の魔装機神を通じて伝わってくる少年の感情のイメージに身を委ねながら、その目が映している世界を広く視界に捉えて、彼女は今日も虚空に向かって語りかけ続けた。
 ――あなたの周りはいつも賑やかね、マサキ。
 きっと自分は少年の豊かな感情の流れが羨ましいのだ。
 その瞳に長く彼らが生きる世界を映し続けた彼女は、繰り返される歴史を、変えられぬ流れとして受け入れることしか出来なくなってしまっていた。何が起ころうとも心が動くことはない。そう思い込んでいた彼女の心の琴線に触れた人間の感情。そう、それは変わらない世界を、もしかしたら変えられるのかも知れないと、彼女に考え直させかけるまでに強固な意志だった。
 絶望を希望に変えてでも前に進み続ける強さ。
 少年の中に眠っているその力が、彼女の目を覚まさせようとしているのだと、彼女自身は既に気付きかけていたからこそ、自らにやがて訪れるだろうその日を心待ちにするかの如く、こうして少年の日常を覗き見てしまったものだ。そんな彼女の執心ぶりを、他の精霊たちがどう感じているか。彼女は知ろうとも思わなかったけれども、きっと快くは感じていないだろう。そう彼女自身は思っている。
 平原を抜けて丘陵地帯へと。風とともに疾りながら辿り着いた少年は、もしかすると道に迷っていると思ったのかも知れない。そこで風の魔装機神を停めると、操縦席の中。腕を組んで宙を仰ぐ。少しもせずに閉ざされた瞼に、彼女は少年が迷っているのではなく、休みを得るつもりなのだと気付いた。
 それから、人間世界の時間で一時間ほどが経過しただろうか。
 ゆっくりと瞼を開いた少年が、けたたましく呼び出し音を鳴り響かせている通信機に手を伸ばす。
 遠く彼方より迫り来る青い機影に果たして気付いているのだろうか。少年の目には捉えられていないのかも知れない。けれどもその通信の相手はきっと青い機影を操っている青年なのだろう。その現実に想いを馳せた瞬間、彼女の口元には笑みが零れ出たものだ。
 少年の渋い表情が物語る因縁の深い相手。かつて彼女を戦う為のパートナーとして求めた青年は、今は別次元の世界で新たなパートナーを得て、自由気ままに世界を駆け巡っている。その自由は楽しい? そう彼女は哀しい過去を背負っている青年に語りかけるも、それこそが素養の差でもあるのだろう。その声が届くことは決してないままに。
 ――人間というのは不思議な生き物よね。
 どれだけ反発的な態度を見せても、青年の存在を拒むことをしない少年。いつもそうだ。憎み続けた過去を乗り越えて、赦すことを覚えた少年は、青年にだけは寛容であろうとしているように映る。
 何故かは彼女にはわからない。知りたいと思う気持ちもあれど、少年のイメージの揺らぎはそれを阻んだものだ。
 ――手を携えて生きていく運命。そうとしか例えられない出会いもあるものだわ。
 暫く通信機に向かい合っていた少年は、やがて仕方がないとばかりに頭を掻きながら、風の魔装機神を降りる決心をしたようだった。間もなく操縦席から姿を消した少年に、今日はこのぐらいかしらと彼女は世界から瞳を逸らすことにした。
 生きることにひたむきに、希望には貪欲に。己の心がままに進んでみせる少年は、何故か青年に対しては素直に向き合えない様子だ。その癖、適度な距離感を保ちながら、その最大の理解者たろうとしている。
 少年と青年。彼女にとってはどちらも幼く稚い存在ではあったけれども、人間世界では少年の方がはるかに年若かったものだのに。
 ――その心の豊かさと広さが私を捉えて離さないのだ。
 幻想的な世界。自らが漂う世界に意識を戻した彼女は、垣間見た少年の日常に、今日もまたそう思い知らされたのだ。

あなたに書いて欲しい物語
@kyoさんには「優しい彼女は夢を見る」で始まり、「そう思い知らされた」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば3ツイート(420字)以内でお願いします。