風邪っぴき

 艦内の談話室はクルーにとってもパイロットにとっても憩いの場だ。めいめいに場所を陣取り、ある時は飲み物片手に談笑し、またある時はカードゲーム等に興じ、またある時は補給基地で搬入される雑誌の数々を読み耽る。いつ起こるとも限らない戦闘に神経を張りつめてばかりでは無駄に磨耗し、戦えるものも戦えなくなってしまう……緩急自在に気分を切り替えることが出来るようになってこそ、クルーにせよパイロットにせよ一人前の扱いをされるものなのだ。
 そうして今日もそれなりに盛況な談話室に盛大な咳がたて続けに響き渡ったのは、艦内時間で午後3時。大規模な戦闘を終えたばかりで、暫くはそうそう大きな戦闘もないであろうと考えられる時間だった。
 クルー達は戦闘後のメンテナンス作業に忙しいらしく、談話室に顔を揃えているのはパイロットばかり。やたらと苦しそうな咳が更に続き、彼らは流石に様子を探るが如くその主を見る。その視線が向かう先にあるのは、鼻をすするマサキの姿。
「ちょっとマサキ大丈夫?」
「風邪なら医務室に行ってこいよ」
その体調を気遣うパイロットもいれば、我関せずと自分の世界に没頭する者もいる。無論、シュウは後者だ。
 人にはそれぞれ役割がある。他人が世話を焼くのであれば、自分の出る幕ではない。そもそも自分が何をした所でマサキはうがった物の見方しか出来ないのだ。望んで対立しているつもりではなく、ただ考え方の違いであると云うのに。
 それを互いが互いに納得させようとするからこそ、話がこじれるのは承知しているのだが、そこはやはり年長者、或いは識者としてのプライドだろう。譲れない傲慢さをシュウとて自覚している。いや、それは傲慢と云うよりも、マサキに理解を求める甘えであるのやも知れない。
 だからこそ、稀に善意だけでシュウはマサキに関わる。それを当人が無闇に深読みしてしまう結果、毎度変わらぬ意地の張り合いになってしまうのだが。
「ちょっと待てよ、お前顔赤いぞ。熱あるんじゃねえか」
「ああ? このくらい平気だって」
 シュウは黙ってひたすらに本を読み進めていたものの、マサキのその強がりか、若さ故に病気を軽く見ているか解らぬ態度に忍耐が限界を越え、
「いい加減になさい」
 あくまで表面は冷静に、ゆっくりと本から顔を上げてマサキに言う。
「それだけ端から見ても風邪と解る症状で人の集まる場所に居続けられるなど迷惑です」
 案の定、マサキはシュウを睨み付けてくる。真っ直ぐで反らさせる事を許さない、ゆるぎない眼差しが何よりも心を揺さぶるのだと知ってか知らずか、真摯に。その強さに満ちた瞳はやはり他人には感じない想いを呼び覚ます。
 余計な世話。ましてや敵。その自分の言葉など、マサキが容易に聞き入れる筈はない。善意――その心配が真実であっても。
 だからシュウも意地になる。悪循環は承知の上で、強引な手段であろうとそれを受け入れさせずにいられない。
「うるせえよ。自分の体の事は自分が一番わかるもんだ。この位なら平気、大した事じゃねえ」
「人の話を聞いていないようですね」シュウは立ち上がる。「あなたがどう思おうが関係ない。私が言っているのは他の人間の迷惑になると云う事です」
 周囲の人間はにわかに始まった諍いの成り行きを見守るが如く、口を閉ざす。静まり返った談話室に響くのはそうしてシュウとマサキの声だけとなる。理由はともかく、その対立と因業の深さだけは誰もが知っているからこそ。
「パイロットは艦の財産です。それにあなたの風邪がうつろうものなら、それは財産を失うも同然。戦力を失って満足な戦いが出来るとでも」
 言葉を詰まらせるマサキの手を無理に引き、談話室から外に出る。抵抗はあったものの、程なくして大人しく後を連いてくるに至る。
 そこまで意地を張る気力もないのだろう。掴んだ手の熱さは尋常ではなく、相当に熱があると解るものであるのだから。
「……手、離せよ」
「そう思うのなら振り払って見せなさい。あなたの体調がいつもと同様であるなら出来るでしょう」
「このくらい――」
 弱々しい力が手にかかり、マサキは諦めた様子で溜め息を洩らした。
「無理かよ……畜生」
「素直に手を引かれるべきですね。それとも肩を貸しましょうか」
「てめえの善意は信用ならねえんだよ」
「同じ陣営で共に戦う以上、あなたも艦の財産です。大事な戦力をそうそう長い間失う訳には行かないのですよ」
「利害でしか動かないってことか。それなら納得行くぜ」
 力なく歩くマサキを引き連れて、医務室への道を行く。時に擦れ違うクルーが何事かと振り返るが、いつもなら愚痴の出るマサキからは言葉がない。話す気力もついに尽きたと見える。
 会話も無く歩き続ける様は、掴んだ手だけが縁のようだ。その温もりにシュウは思う。素直に胸の内を明かせない自分は子供のようだ、と。

※ ※ ※

 熱があるからか、頭が上手く働かない。働かないながらもシュウのひんやりとした手の温もりだけはリアルな感触がある。それが熱の所為なのか、それとも別の感情であるのか――恐らく両方なのだろう。マサキにはやけに心地よく、加えて喩えようのない安堵を覚えさせる。
 顔を合わせれば皮肉の応酬であっても、そこにはただ敵だと一言で切り捨てるには不十分な割り切れない感情が存在していると気付いたのは何時だっただろう。自分ですら覚束ないと感じる幼児の如き足取りで、繋がれた手に導かれるまま歩きながら、明瞭りとしない思考ながらもマサキは考える。それはいつの間にか、自分の中に芽生えてしまった『モノ』だ。
「そこのベットに横になって下さい、ほら」
 医務室に辿り着き、ベットに寝かされる。機械的な室内の薬品棚は、振動対策で頑丈に固定されている。勿論中に並ぶ薬品も、それぞれが容易に外に飛び出さぬよう固定されている状態だ。
「……誰もいないようですね」
 医務室奥のメディカルスタッフルームを覗いたシュウが言う。
 言われてマサキが周囲に気を配ると、いつもならそれなりに人が居る筈の医務室は人気なく静まり返っている。戦闘で傷付いた戦闘員の治療に一段落付いて遅めの食事とでも洒落込んでいるのか、それとも他の部署のスタッフとのミーティングでも行っているのか、どちらにしてもメディカルスタッフ全員が出払っているのは珍しい。シュウは探しに出るのだろうか。優雅な足取りで医務室の出入り口に向かう。
 心細さに、行かないでくれと言えたらいい。熱で潤んだ眼差しで、その姿を追い掛けつつマサキは臍を噛む。素直にはなれない、と。
 風邪で熱があるからこそ弱っているだけなのだと言い聞かせるも、それが詭弁であるのは自分が一番理解している。
 声を掛けられて、無理にでも連れ出されてどれだけ嬉しかったか。繋いだ手に、どれだけ鼓動が跳ね上がったか。こうして室内で二人きりになっただけでも、どうにもならない程に緊張してしまう。それは自らの敵だからでは決してなく。
「止めましょう。私が処方した方が早い」
 スライドドアの前まで行きかけて、シュウが踵を返し薬品棚に向かう。
 保たれた二人きりの状態に覚える期待と不安、そして喜び。それらの感情をかつての惨劇に対する憎しみで押し留めようとするも、熱で思考がままならない状態では本心が勝るものだ。
 後ろめたさを覚えても、この時間は至福。
 だのに今更素直にはなれない。意地の張り合いは譲れない立場があってこそ。だからマサキはシュウに嫌でも対立しなければならない。そしてプライドの高い男の余計な怒りを買い、それにマサキは対抗せざるを得なくなる。ずうっとその繰り返しだ。ずうっと。
 本心を明かしてしまえたら――出来ないのは解っている。鼻で笑われるのが関の山だ。性質の悪い冗談だと目の前の男は思うに違いない。そもそも自分からしてそう感じていると云うのに。
「飲みなさい」
「変な薬じゃねえだろうな」
 マサキの背中が支えられ、上体が起こされる。シュウの手には幾錠かの薬が乗っており、それを手にすると水の入ったコップが差し出される。
「抗生物質と咳止めに解熱剤ですよ。言ったでしょう、味方である以上あなたも艦の財産だと」
 その扱いがやるせないのだ。味方であろうが敵だと思い知らされるこの扱いが。された分だけ、自分もまたそう振る舞わざるを得なくなる。そうして心は軋むと云うのに。
「だるくて辛え……」
「ですから意地は張るなと言うのです」
 この位ならば許されるだろう――熱でふらつく体にこれ幸いと、マサキはシュウにもたれかかりつつ薬を飲む。
「それから喉が辛そうですのでトローチを」
 余程辛そうに見えたのだろう。口元にシュウの指が伸びてきたかと思うと、トローチを押し込まれる。
 実際、このシュウの支える手がなければベットにそのまま倒れ込んでしまう程に、マサキの体は熱で弱っていた。その弱った姿を周囲の人間には見せたくなかったからこそ、敢えて平気な振りをしていたのだ。それをこうして医務室に連れて来れる程にマサキを扱えるのはシュウしかいないだろうと自分の事ながら思う。
「噛まずに舐めてゆっくり眠ることですね。処方した薬に関してはメモにして残しておきますから、スタッフが戻りましたらあなたから一言伝えて頂けると話も通り易い」
 口唇に触れた指の冷えた感触が、無駄にマサキを興奮させる。これだけ体が倦んだだるさに支配されているにも関わらず、このままでは寝れそうにない。立ち上がるシュウを見上げ、しかし行くなとも言えず、
「誰か寄越してくれよ。一人だと何かあった時に困るし、寝るまでの話相手が欲しい」
「それで他の人間にうつっては大事だと申し上げたでしょう。薬を飲んだのですから直ぐ眠くなりますよ」
 それだけ言い置いてシュウは医務室から出て行った。機械の音だけが響く室内に残されたマサキはそして、素直になれればいいのにと改めて思う。

※ ※ ※

 口唇に触れた指先が熱い。
 シュウは談話室に戻る道すがら、その指をそっと舐める。そこからマサキの温もりが伝わってくるものでもないのに、ただささやかな満足の為に、それで僅かながらの幸せを得る為に。その味は、微かにトローチの甘さを残すばかり。
「どうしました、白河さん。指でも切りましたか」
「ああ、丁度いい所で会いました」
 擦れ違った中央管制室のスタッフが声を掛けてくる。戦艦中枢区域のスタッフである彼ならば、医療スタッフの不在の理由も知っている筈である。そしてその戻り時間も。
 予想通りと云うべきか、彼らは次元通信システムを使用した軍隊医療スタッフ研究ミーティングに参加しているらしい。定期的に行われる医療研究会で、ブリーフィングルームを使っており、ほぼ半日に渡って行われるのが慣例だと彼は語った。
「急患ならそちらに行けば」
「いえ、差し迫った用ではありませんから」
 礼を述べ、シュウは談話室に戻る。再び本を読みながら寛ぎの一時を過ごす為ではなく、その本を手に医務室に戻る為に。

 シュウは思う。
 ――子供よりも幼く、大人の駆け引きよりも狡猾だ。
 マサキは思う。
 ――自分の心を持て余して、ささやかな事に喜びや不安を感じるなんて、まるで子供じゃないか。

 そして医務室の扉が開く。
「……何しに来やがったんだよこの野郎」
「何をしに、とはまた随分尊大な言葉ですね」
 ベットに横たわるマサキに、手近な椅子を引き寄せて腰掛けるシュウ。
「どうやらスタッフが戻るのに時間がかかりそうですので。薬を処方した人間として経過は見守らねば、副作用でも出ては大事ですから」
 素直になれない胸の内を抱えたまま、二人はそうして今日も馴れ合いの意地を張る。