書庫の片隅で、長椅子の上。シュウは書斎に運び込もうと集めた書をつまびらいていた。
良くあることだった。
研究に必要な書を探しに書庫に入ったつもりが全く関係のない書を読み耽っていたり、使い終えた書を書庫に戻すつもりが書斎で足踏みしてその書を読み耽っていたり……本が絡むと几帳面さを何処かに置いてくる――とはマサキの弁だったが、指摘されたぐらいで止められる行為であれば、シュウはとっくに書斎に戻っているだろう。
とどのつまり、シュウ=シラカワという人間は本の虫であるのだ。
自覚のあるシュウは、だからこそ、この章が終わったら動こう。そして本の移動を終わらせて、放ったらかしになっているマサキの相手をしようなどと考えていたのだが、気付けばその覚悟はどこにやら。先の先の章まで読み進めている始末。
しかもこれが面白くて仕方がないときたものだ。
シュウは自らの研究に必要な主要な知識の数々は、樹形図のように近接する知識を枝分かれさせた上で脳内に格納している。脳に溜めた知識のイメージは人によって異なるようで、本棚が並んでいると評する者もいれば、メモ用紙が散乱していると評する者もいる。それらと比べると、シュウのイメージはかなり体系的だ。だが、だからといってシュウの脳内には、蔵書の全てが収められている訳ではなく。
大まかに特徴を捉えただけの知識もあれば、枝葉末節に過ぎないと切り捨ててしまった知識もある。
読書によってそれらが掘り返されてゆくのを感じるのが、シュウは好きだ。勿論、ひとつの研究をやりきった瞬間の高揚感と比べれば、それは些少な喜びに過ぎなかったが、それでも今日が充実した日であると感じるのに充分足る満足感。シュウがすべきことを後回しにして書の世界に耽溺してしまうのは、知的な興奮が快感に結びついているからに他ならないのだ。
そこにマサキの気配を感じたのは、いよいよ立ち上がるのが億劫に感じられるほどに書を読み進めてしまってからだった。
つくづくマサキ=アンドーという人間は、気紛れで、寛大で、衝動的に出来ている。こうしてふたりでひとつ屋根の下にいながらにして、めいめい好き勝手に動き回っていても、その現実に不満を感じることのないほどに。
だからシュウはマサキが書庫に入り込んできたようだと気付いても、彼に意識を向けることなく読書に耽り続けていた。
本を読むという習慣のないマサキのことである。書庫に入り込んだのは、シュウを探してのことだ。わかっていても顔を上げられない。シュウは紙の上に緻密に刻まれた文字の数々を読み続けた。
書庫を動き回る足音が、徐々にシュウの許へと近付いてくる。
ややあって、書棚の影から姿を現わしたマサキがシュウの目の前に立った。それでもシュウは読書を止められない。黙ってマサキがアクションを起こすのを待ちながら目で文字を追う。
少しの間。無言でシュウの様子を窺っていたマサキがやおら腕を前に突き出してくる。何をするつもりでいるのか。シュウは僅かに構えたが、彼はシュウの邪魔をする気でいるのではないようだ。手にした毛糸の編地の塊を広げてシュウの頭に被せてくる。
「何です、これは」
「たぬき」
「たぬき?」
シュウは頭に被さっているフードを手に取った。そしてそれを広げてまじまじと見た。可愛らしくも間の抜けたたぬきの顔が編み込まれたフード。子どもが喜びそうなファンシーさに溢れている。
しかしいつどこで手に入れてきたのか。マサキの突飛な行動に慣れているシュウでも怪訝に感じる柄。流石にマサキでもこういった柄を臆面なく買い求めたりはしないだろう。どう足掻いても着こなせる気がしないフードを膝に置いたシュウは、どういうつもりです。と、マサキを見上げた。
「知らねえよ」
「知らない? 何故」
自ら持ち込んできておきながら頓狂な返事もあったものだ。しかもマサキもまた、シュウの返事をおかしなものと感じているようだ。首を傾げているマサキに、その行動の意図が読めないシュウは、ただ彼の次の言葉を待つしかなく。
「ちょっとシャツを借りようと思ってクローゼットを漁ってたら、チェストの奥から出てきたんだよ。だのにお前が知らないってどういうことだよ。ここ、長いんだろ。住み始めて」
「少し待ってください。そういえば見覚えが――」
シュウは膝に置いたフードをもう一度広げた。
何度見ても間の抜けたたぬきの顔。口が書かれていないことで、表情を想像させるように仕向けているのだろう。縁に少しほつれがあるということは、新品ではないということだ。
額に手を当てて、考え込む。何故自分がこういったものを、大事に抱え込むようにチェストに仕舞っておいたのか――脳内でアルバムを捲るように記憶を探る。パラパラと写真のように浮かぶシーンを戻して、三年ほど。そこでシュウはようやくそのフードが誰からのプレゼントであるかを思い出した。
「知り合いの子どもから貰ったのですよ。くれると云って聞かなくて」
そう、若くして結婚した知人の家を訪ねた際に、少しだけ触れ合った彼の三歳になる娘。彼女はいたくシュウを気に入ったようで、シュウの帰り際に急いで自分の部屋に駆け込むと、当時、一番のお気に入りであったこのフードを持ち出してきた。
無論、シュウは固辞した。
幾らニット帽とはいえ、たぬき柄。家でひとりでいたとしても被ることのないものだ。
貰ったところで場所を取るだけ。わかっているからこそ、穏便に済まそうとシュウは断った。
だが、相手は三歳児である。泣いてあげるの! と、引かない彼女にシュウは困り果てた。
頼りの知人は窘めるどころか、娘と一緒になって、ここまで云っているのだから貰ってやってくれと云い出す有様。それでシュウは折れた。大事にしますよ。と、彼女からたぬきのフードを受け取った。その瞬間の彼女の顔! にっこりと笑った表情の愛くるしさに、これは知人も甘やかしもする――とシュウは納得したものだった。
何処にも置き場のないたぬきのフードが、シュウのクローゼットの中にあるのはそういった理由からだ。
しかし如何にシュウの日常生活が多忙に彩られているとはいえ、たかだか三年前の出来事である。忘れてしまうなどらしくない。いや、それだけシュウの生活は目の前に立つ青年を中心に回ってしまっているのだそう。だとすれば、私は本当に勝手な男だ。そうシュウが自らの身勝手さを僅かに恥じた瞬間だった。
「なんだ。俺はまたてっきり、どこかに隠し子でもいるのかと」
この感想である。
どうもマサキ=アンドーという人間は、シュウ=シラカワを節操のない人間だと思っているらしい。肉体関係を結んでいるのは自分に限らないと信じている節がある。何かにつけてはどうせ――と口にし出すマサキ。それがありありと窺えるひと言に、シュウは溜息を洩らす。
「あなたは私をどういう人間だと思っているのです」
「いや、まあ、な……」
「私に隠し子がいるのなら、あなたには家庭が二つぐらいあることでしょうに」
どうせサフィーネやモニカのことを揶揄しているのだと思ったシュウは、だからこそ彼とともに戦う道を選んだリューネとウェンディの存在をちらつかせた。
長い付き合いである彼女らを放っぽり出して、シュウの家に出入りを繰り返しているのは誰なのか。
それで自分の台詞がシュウにどういった感情を抱かせるかを覚ったようだ。眉を顰めたマサキが、直後にはバツの悪そうな表情になったかと思うと、膝を落としてシュウの顔を見上げてくる。
「悪かった。冗談だって」
「わかっていますよ。私も冗談のつもりです」
「その子、女の子だったのか?」
マサキの手が、シュウの膝の上に置かれているたぬきのフードに伸びてくる。
「そうですよ。とはいっても、三歳でしたがね」
「そっか。なら、初恋だな」
そう云ってにやりと笑ったマサキが、フードを綺麗に畳んで手に持った。
「もう六歳ですよ。しかもそのフードの話など、あれきり一度も出てこない」
「馬鹿だな、お前。だから初恋なんじゃねえか。ホント、この色男はよ。俺の鈍感さを責める割には、自分のことはからっきしじゃねえか」
声を抑えるようにして笑うマサキが、そうしてシュウに背を向ける。
「大事に仕舞っておいてやるよ。その子の結婚式にでも返してやるんだな」
そのまま、鼻歌混じりに書庫を出て行ったマサキに、一体、彼は何を考えているのだろうと思いながらも、それも悪くないかも知れない――と、書を畳んだシュウは長椅子から立ち上がりながら、遠い未来に思いを馳せた。