待った? と女性の声がした。
マフラーに顔を埋めて暖を取っていたマサキは、声がした方角に目を向けた。
白いコートに身を包み、緩く髪を巻いた妙齢の女性。化粧でほんのりと色付いた顔が、はちきれんばかりの笑顔を浮かべながらマサキの横を通り過ぎた。
彼女の訪れを待ち詫びていたのだろう。スーツにコート、そしてビジネスバッグの三点セット。会社帰りと思しきいでたちの男性が、目の前に立った彼女に、今来たばかりだ――と、はにかんだ笑顔を浮かべる。
眩いばかりのイルミネーションに包まれたデパート前の巨大クリスマスツリーは、待ち合わせスポットにもってこいなようだ。十重二十重に取り囲む人々で賑わっている。嫌な時期に来ちまった。近くのベンチで歩き疲れた足を休めていたマサキは、白くけぶる自らの呼吸が流れて行く先へと視線を移した。
任務で訪れた久しぶりの地上だった。
地上に溢れる光が星々を駆逐してしまった空。暗がりにぽっかりと浮かぶ月は、まるで今のマサキのようでもある。
「すっごい人ニャんだニャ」
「流石はクリスマスイブニャのね」
足元で丸くなっている二匹の使い魔が、物珍しそうに周囲を眺めまわしている。
――ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る……
そこかしこから聴こえてくるクリスマスソングが耳に痛い。クリスマスシーズン最盛期を迎えて、賑やかさが最高潮に達する聖なる夜。浮かれ騒ぐ人々の熱気に、クリスマスに縁のないラ・ギアスから出てきたマサキは馴染めずにいた。
「退屈だな」
つい洩れ出る本音。馴染めないのに、帰りたくない。
街を行き交う人々は、誰しもが今日の夜への期待に満ちた表情をしている。それがマサキにとって気に入らなく感じられてしまうのは、自分だけが世界に取り残されたような孤独感を味わわせてくるからだ。
「すべきことも済んだし、そろそろ帰ろうニャんだニャ」
「いつまでもここで休んでても、身体が冷えるだけニャのよ」
底冷えする寒さ。電車の中で見たニュースでは、西から寒波が到来しているらしい。今年はホワイト・クリスマスになるかも知れませんね。そんなことを云っていたアナウンサーに、マサキはげんなりとした気分になったものだった。
「わかってるよ」
きらきらと瞬く光が視界を覆っている。イルミネーションにビルの窓明かり、そして車のテールランプ。これからクリスマスの夜に繰り出すのだろう。窓を開いた一台の車が、クリスマスソングを流しながら、目の前の通りを走り去ってゆく。
「面白くねえな」マサキは腐る心を止められずにいた。
子どもの頃は無邪気に楽しみにしていられたクリスマスを、いつからマサキは鬱陶しく感じるようになってしまったのだろう。サンタクロースがいないと知ってしまったあの日からだろうか? それとも、一緒にクリスマスを過ごす家族を失ってしまったあの日からだろうか? 今となっては明確な理由が思い出せない。それは生理的嫌悪にも似ているとマサキは思う。
「面白くニャいニャら帰ればいいのよ」
「長居する理由もニャいんだニャ」
「それはそうなんだけどよ」
昔は確かにこの夜の一員だった――その記憶が、きっと自分をこの場に縛り付けているのだ。二匹の使い魔を足元に置きながらも感じずにいられない孤独感に、マサキは自分が辿ってきた道を振り返った。
地底世界に召喚されたあの日。ほんの出来心で引き受けた秩序の守り人という立場は、マサキを引き返せない道へと進ませていった。命を懸けて戦場に立ち、仲間と死に別れ、そうして掴んだ平穏はいつでも束の間に過ぎる……。
魔装機神の操者となってかなりの経験を積んだマサキは、ようやくその立場の重みを理解し始めていた。
普通の人間と同じようには生きられない。
自らの思惑とは真逆に高まる名声。何をするにも衆目に晒される。それがマサキにはストレスだった。
けれどもそれを受け入れなければ、無念を抱えて死んでいった数多の命に申し訳が立たない。彼らの命の上に今の自分の地位があることを知っているマサキは、だからこそ不平不満を表だって口にすることを避けるようになった。
とはいえ、当たり前の日常が何よりも尊いものだと気付いたからといって、今更マサキは元の生活に戻ろうなどとは思わなかったが、人並みの幸せとは縁遠い位置にいる自分の人生に何も思わずにいられるほど悟り切った性格をしている訳でもない。
「向こうで皆とパーティをすればいいのよ!」
「そうだニャ! クリスマスパーティニャんだニャ!」
主人の心の機微に敏感な二匹の使い魔が、マサキの心を読んだかのように声を掛けてくる。
だが、そうではないのだ。マサキは視線を宙に彷徨わせた。自分がこの空気に馴染めないのが気に入らない。それは地上世界からの明確な拒絶の意思でもあった。お前の居場所はここではない。地上を離れ、ラ・ギアスで生きることを決意したマサキは、だからこそ、今になって猛烈に自覚させられたその現実に面白くなさを感じてしまっている。
「パーティ、か。精霊様は喜んでくれるかね」
「精霊様がどうってより、マサキがどうしたいかじゃニャいの?」
「まあ、そうなんだがな……」
異教の文化を地底世界に持ち込むことは、果たして真であるのか。マサキは豊かな自然に彩られたラングランの景色を脳裏に呼び起こした。あるがままが美しいラ・ギアス世界に、この文明の申し子のようなイベントは不似合いな気がする。
「帰るか」
マサキはベンチから腰を上げた。
思うことは多々あれど、マサキが帰りたいと思う場所はひとつしかない。中天に座す太陽。大地がせり上がり、雲間に消えゆく空洞世界。地上世界で異分子となってしまったマサキを、懐深く受け入れてくれた地底世界ラ・ギアス。その恩に報いる為に、マサキは一生を世界の平和の為に費やすこととした。
――ならば、かけがえのない仲間たちこそをこの夜の共としよう。
マサキはシロとクロを従えて、人波の中に紛れ込んだ。酒を買って帰らなきゃな。そう呟きながら、手近な店を探す。
いずれにせよ、この世界もまたマサキが守ったものだ。
なら、何も思うまい。マサキは通りの向かいにある酒屋に目を付けた。そして、この夜に溶け込んでいる人々の心安い笑顔に囲まれながら、スクランブル交差点を渡っていった。