それは今から遡ること三年前の風が冷たい夜だった。
闇が世界を覆うことのラ・ギアスの眩いまでに光が照らし出す夜を、プレシアが眠りに就くのを待ってから、マサキはひとりサイバスターを駆って散歩と洒落込んでいた。
しんしんと静まり返った世界。大半の人間が眠りに就いているからだろう。昼間と同じ景色でありながらの静けさは、世界が自分だけを受け入れてくれているような錯覚に陥らせたものだ。
そこでグランゾンを駆るシュウと会った。どうです? と誘われて、サイバスターを降りたマサキは、思いがけず吹き付ける冷たい風に身を竦めながら、丘の上。僅かに距離を開けながらシュウと肩を並べ、遠く煌めいている王都を眺めていた。
神聖ラングラン帝国の輝ける黄金時代を象徴する王都は、国の首都に相応しいまでに巨大で、豪奢で、そして目を細めたくなるまでに美しかった。退廃的な美。人々が織り成す生活の息吹は、当然ながらマサキがいる位置にまでは届くべくもなかったが、それでも静謐に感じられれてならないのは、都市機能の大半が眠りに就いているからでもあるのだろう。
――寒いですか、マサキ。
暑さ寒さを感じないかのように、いつでも代わり映えのしない衣装。それはシュウにとっての正装であるやも知れなかった。高貴にして高雅。貴人にこそ相応しい白と紫の色重ねを彼は好むようだ。常に白い装束を身に纏い、その上から飾り帯を垂らしている彼は、少しな、と答えたマサキにほらと、その大事な装束を脱いで掛けてきたものだった。
いつからか優しさばかりをみせるようになった男の本心に、マサキは薄々気付いていながら目を塞いでしまっていた。この時もそうだった。マサキはそれを一度は断ってみせたものの、当たり前のように肩から掛けられた上着を、ぽっと脱いで渡せてしまうほどに、シュウの感情に無関心にもなれず。
蟠りばかりが増えてゆく、胸の内。それを悟られないように、後で自分が寒くなったからって返せって云うなよ。そう軽口を叩いてみせながら、シュウの下心が透けて見える優しさを、どう扱い、どう受け止めればいいかわからずに、マサキはひっそりと溜息を吐いた。
無理もない。
敵ではなくなったと認めてはいるものの、さりとて味方であるとは認め難い男、シュウ=シラカワ。或いはクリストフ=マクソードでもある彼は、ラ・ギアス世界における大いなる負の遺産、サーヴァ=ヴォルクルスの力に操られるがまま、この溢れんばかりの美しさを誇る世界を蹂躙した犯罪者であった。
その事実をマサキが忘れたことはない。
果たして人格を支配されて犯した罪というものは、誰の責任であるのか。
地上世界でも意見が分かれる罪の所在。例えばある国に於いては、多重人格者の主人格以外が犯した罪は、全ての人格の責任であると認められていた。彼らはひとつの肉体を共有する存在であるからこそ、他の人格が犯した罪を共同責任の名に於いて償わされるのだ。
また、ある国に於いては、催眠暗示によって犯してしまった罪は、催眠暗示を施した側に責任が認められた。この場合、罪を償うのは、催眠暗示をかけられた側ではなくかけた側である――そういった地上世界の様々な国の法律に明るい訳ではなかったマサキは、けれども、シュウ=シラカワという男が置かれた特殊な境遇に、考えを及ぼさずにいられないほど無知ではなかった。
悩み、惑い、そして怒りを重ねたマサキは、だからこそ、憎しみを向け続けた相手を赦すことにした。罪は人の上にあらず。人の内にあるものである。だからこそ、罪はそれを及ぼした者のものとなるのだ。無論、シュウ自身が道を違えれば、その限りではない。その時は彼を赦すことを選択した自分が引導を渡そう。
そう、何度でも。
過ぎた野望に身を食い荒らされた者は、やがて世界へとその牙を剥く。それを知っているマサキは、そうして自分でも奇妙な距離感だと思いながら、付かず離れず、彼との付き合いを続けてゆくこととなった。
――まだ、寒い?
気もそぞろにつれづれと。会話を重ねていると、吹き付ける風が頬を幾度も打った。温暖な気候が常のラングランで、こういった陽気になるのは稀だ。まるで木枯らしのような北からの風。大地に沿って吹き上がる風に、いつしか冷え切っていた手足。そろそろ潮時か。ベッドの温もりが恋しくなったマサキは、シュウのその言葉を契機に、帰宅の途に就こうと掛けられた上着を脱いだ。
――そうだな。そろそろ帰るぜ。ほら。
差し出された上着を取るかと思われた手が、マサキの手首を取ったのは次の瞬間だった。きっと冷えた手足に反射神経を奪われてしまっていたのだ。マサキがその手を振り払うよりも先に、引き寄せられる腕。そのまま、シュウはマサキの身体を引き寄せると、息苦しくなるほどの力で抱き締めてきた。
――これなら温かいでしょう。
知っていて目を瞑り続けたツケを支払わされる日が来たのだ。マサキは絶望的な思いでシュウの腕の中にいた。
布越しに伝わってくる温もりの想像以上の温かさ。マサキ、と自分の名を呼ぶ声の初めて耳にするような穏やかさ。そうしてそういった優しさとは裏腹に、自分を捉えている腕に込められた力の激しさ。
如何なる時であろうと冷静であり続けようとする男の、自らに心を動かされたとしか思えない発作的な行動は、マサキの心を千々に乱した。どう反応すればいいのかわからない。その途惑いをシュウがどう受け止めたのか、マサキにはわからない。ただ、暫く黙ってマサキを抱き締めていたシュウは、おもむろに。マサキの顔を上げさせると、その口唇を奪ってみせた。予想だにしていなかった事態。シュウからの好意を自覚していたマサキは、けれどもその先に何が待ち受けているのかまでには、想像力を働かせられていなかったのだ。
――愛していますよ、マサキ。
人々が眠りに就いたひっそりとした世界で、シュウの言葉だけが重く響いた。刹那、心が悲鳴を上げた。まるで鎖にでも締め上げられているような圧迫感を感じる。それは僅かな時間だった。ぐしゃりとひしゃげるような音がマサキの身体の中から聞こえてきた。
マサキの心は押し潰された。
地底から地上へ。王都が壊滅したあの日に、シュウを追いかけてマサキは自らの故郷たる世界へと飛び出した。追いかけて、追いかけて、追いかけて、そうして幾度も対峙しては、あっさりと躱される。屈辱を経て強かさを手に入れたマサキは、ようやく悲願を果たしてラ・ギアスへと帰還した。そうして、そうして……
赦してなど、いなかったのだ。
絶望ばかりが渦巻く胸の内。自分の中の大事な何かが壊れてしまったマサキは、無表情でシュウの腕を解いた。そして更に追い縋ってくる腕を払う。シュウはきっと泣きたかったに違いない。マサキだったら惨めさに泣いているところだ。
――突然、云われても困るだけでしょう。
それでもそっと伸ばした腕を収めた彼は、冷静な表情で、静かにそう言葉を吐いた。それに対してマサキは暫く黙った後に口を開いた。その通りだよ。シュウのその言葉を否定してやれるほど、マサキはもうシュウに優しさを向けられなくなってしまっていた。
愛してると言われたら
【マサキの場合】
愛してると突然言われたその時心がいびつな音を上げた。ひしゃげるような音だった。それは相手にも聞こえてしまったらしい。困るよね、と静かな声が言う。否定できる程自分は優しくなかった。