STELLA

 精霊界のくら天上そらに一筋の光が流れ落ちた。
 あれは――、と、先を往く女性の姿形をした名も知らぬ精霊に聞けば、魂が発する燐光なのだと云う。ああやって英霊はこの地に降りてくるのです。精霊の言葉を聞きながら、まるで流れ星のようだとシュウは思いながら、彼女の後を付いて歩いた。
 見兼ねたのだと云う。
 とうに守り人も絶えた岬にある古びた灯台に籠って当てもなく研究を続けるシュウに、時折様子を窺いに訪れていたサフィーネは、その変調に口を挟むこともせず、ずうっと黙って身の回りの世話を施し続けていた。必要な物資を運び込み、次に自らがここを訪れるまでの食事を用意し、衣類を片付け、そして次回までに叶えて欲しい要望を尋ねる……けれどもある日、ついに彼女の強健なる忍耐力は限界を迎えたようだ。
 ――どうか精霊界に行ってくださいませ。
 精霊界と地底世界が切り離されて久しければ、神官イブンも鬼籍に入って久しかった。シュウの前に姿を見せるなりそう懇願してきたサフィーネは、ひとつひとつ失われてゆくよすがに気力を失いがちになる主人シュウに、それでも方法はあります。そう云い切ると、全ての手筈を整えてくれたものだ。
 ――精霊界に行って何が変わるというのでしょうね、サフィーネ。私が彼と会いたいのは、この豊かなるラングランの大地でですよ。冥府の亡者が羽根を休める世界でではない。
 ――それでも、その姿を見れば慰めにはなりましょう。
 シュウの待ち人もまた、既にこの世を去って久しかった。シュウがその姿や声を思い出せなくなってどのくらいが経ったことだろう。あれだけ交わした膨大な言葉の数々も、最早、数えるほどしか思い出せない。だのに恋しさばかりがいや募る。会いたい。彼を喪った現実世界とは、こんなにも過酷なものであるのだ。シュウはかつての自分であったならば考えもしなかった未来に自分が置かれている現状をひっそりと愁い、嘆いた。
 それでも諦めきれない思い。会いたい。
 記憶が擦り切れるほどの歳月もの間、孤独にもひとりでシュウが岬の灯台に籠り続けていたのは、どうにかして彼を現世に呼び戻せないかと考えていたからだった。禁断の蘇生術。それを正当な魔術で叶えるのは、シュウの頭脳や知識、経験をもってしても無理な願いであるとシュウ本人も理解していたけれども、どうにもならない未練と衝動が、その研究へとシュウを駆り立てて止まなかった。
 会いたい。
 けれども精霊界を訪れたシュウに、無情にも精霊たちはこう告げたのだ。彼は既に輪廻の輪の中に戻った後である。故に精霊界ここで彼と会うことは叶わない、と。シュウは落胆した。しかしそれを正直に表情に表せる人間でもない。だからこそ、彼女らは続けてこう告げたのだ。その行き先が地上世界になるのか、それとも地底世界になるのかまでは、様々な事象を見通す精霊の目でも視ることは叶わないのだ――と。
 輪廻の輪に戻った魂を、そして恐らくは既に転生を果たしているだろう魂を、ラングランに呼び戻すことは可能なのだろうか。誰にも口にしてこなかったシュウのそうした願いや欲望を、精霊たちは把握しているようだった。そなたが命を絶つことも、命を呼び戻すこともまかりならん。そうとだけ告げ、精霊サイフィスはひと足先にシュウの目の前から姿を消した。
 ――あなたに大事な庇護者マサキを取られたことを根に持っているのですよ。
 先を往く何某かの精霊たる彼女はそう云って、無邪気にもくすくすと声を発して笑ってみせたものだった。それを目にした厳めしくも無骨な精霊は、シュウの気持ちを慮ってだろう。彼女の無礼をきつく窘めてくれたものだったけれども、それを目の前にしながらも、シュウの胸には何の感情も湧いてはこず。
 シュウにとって今の生活とは、全てがどうでもいい些末な出来事の積み重ねでしかないのだ。
 あれだけ精霊を信仰してきたかつての敬虔な教徒だった自分はどこに行ってしまったのかと、シュウ自身も思うまでに無味乾燥な世界。ゆったりとした時代ときを送っているようで、凄まじいスピードで過ぎてゆく時間の中にある幻想的ファンタジックな世界に、シュウはどれだけ辿り着きたいと思ったことだろう。だのに、あれほど焦がれた天界ヘヴンに身を置きながら、シュウにはその世界が色褪せて見えて仕方がない。
 何という皮肉! 擦り切れた記憶を抱えながらも、未練を断ち切れずにいるシュウにとって、世界とは自らに委ねられるものではなく、自らが委ねるものでしかなかったのだ。それはある種の老いでもあったし、ある種の死でもあった。けれどもシュウはそれを嘆こうとは思わない。ただ、早く研究を完成させなければ――何故か強くそう思うだけだった。
 ――折角、隔たった世界を渡って来られたのです。彼に会わせることは出来ませんが、懐かしい方と会わせることは出来ます。どうかこちらに。
 そう彼女に云われて、ただその言葉に導かるように後を付いて歩くこと一時間ほど。地底世界ではどれだけの時間が過ぎたことだろう。シュウがそんなことを考え始めた矢先だった。久しぶりだね、クリストフ。目の前の冥い道のりが不意に光を湛えたかと思うと、懐かしくも妬ましい従兄弟フェイルロードの姿が浮かび上がった――……。

※ ※ ※

 ――流れ星を見たかい?
 ふたりで肩を並べ、黙々と精霊界の奥行きのない道を歩いた。道案内だった彼女は、後程迎えに来ると言い残して姿を消してしまっている。見ましたよ、と、シュウが答えると、あれを目にする度に寂しさが募るんだよ、という意外な返事を聞かされた。
 ――寂しさが募る? あなたにしてはらしくないことを云いますね、フェイルロード。
 弱音を曝け出そうとしない従兄弟だった。幾度となく廃太子の危機に晒された国王であるアルザールが第一子であったフェイルロードは、そうした自らの脆弱な地位に思うところがあったのだろう。シュウにさえ何も悟らせずに、ひっそりと。王位継承権を得る為に必要な魔力テストに合格する、ただその為だけに魔力を増強する禁薬に手を出してしまったのだという。
 それが結果、自らの命を大幅に縮めると知っていながらの蛮行。けれどもシュウには従兄弟の気持ちが少しだけ、そう、本当に少しだけ理解出来る気がしていた。
 王家という籠の中には有象無象の輩が跳梁跋扈している。彼らは緋のカーテンの向こう側で、自らの地位の向上と権力の拡大に余念がなかった。きっと、恐らくは今も、彼らはそこが巨大な籠の中であるとの自覚もないままに、権謀術数で以て、自らと対立する敵の追い落としに余念がないことだろう。それに王族たるシュウたちを巻き込まないのであれば好きにすればいい、シュウはそう思ったものだったけれども、彼らはそうした争いの有能な支援者パトロンとして王族の力を得ようと、シュウたちに取り入るべく口八丁手八丁で迫って来たものだ。
 シュウは彼らのそうした営みをくだらない、と一笑に付すことが出来たものだったけれども、穏やかで優しく、同和的な従兄弟には耐え難い諍いに感じられて仕方がなかったのやも知れない。
 ――いつの日か、あなたは私にこう云った。この世界を私は王位に就くことで変えてみせると。
 ここに居たところで、何も変えられるものはないよ。フェイルロードはそう云って、寂しそうに微笑わらった。そしてシュウにこう話をしたものだ。後悔ばかりが続く、と。
 魔装機神の手によって命を終えるその瞬間、現実と向き合わされた従兄弟は、目的に向かって邁進しているように見えた自らの人生の無意味さを思い知ったのだという。無知蒙昧でいられなくなった従兄弟は、けれども英霊として精霊界に祀り上げられることとなった。そうしてすべきことを持たなくなった従兄弟は、そこでようやく己のしたことを振り返っては後悔を感じずにいられなくなったようだ。
 ――あの流れ星が、この地に降りてくる新たな英霊であることは知っているかい?
 知っていると短く答えたシュウに、フェイルロードは声を上げて、自らを嘲るように嘲笑わらった。英霊、などと云えば聞こえがいいが、要は怨霊だ。そのまま輪廻の輪に戻せば世界に害を与えかねない魂を、精霊たちは英霊としてこの地に封じ込めることとした。そして魂の浄化を待ち、その時が訪れれば輪廻に返す……そう語ったフェイルロードに、あなたに魂の浄化が必要なようには思えませんが。シュウは心の底から感じたことを素直に口にした。
 ――輪廻の輪を廻る内に、魂はその内側にそれまでの罪業をカルマとして抱え込んでゆくのだそうだ。ひとつの人生におけるカルマは僅かなものでも、積み重ねれば塵芥ちりあくたと同じだ。私の魂は前世以前のカルマが相当に溜まっているそうだよ。君の人生が終わろうとも、私の魂の浄化が終わることはない。そのぐらいには私は罪を重ねてしまった。
 ――なら、マサキは――……
 取り繕うことも思い付かぬままに、自然とシュウの口をいていた名前を耳にしたフェイルロードは、精霊界ここからは地底世界の全てが見通せるんだよ、クリストフ。そう云って、今度は可笑しくて堪らないといった様子で笑った。
 ――君の無表情ポーカーフェイスが、あんな表情に変わるなんてね。出来れば、私たちにも見せて欲しかったよ、クリストフ。そうしたら、もしかしたら、あの世界は自ら変革を望むようになっていたかも知れない。
 そして話を逸らされたどころか、プライバシーを侵害されていたことに対する不満が露わになっていたのだろう。シュウの顔を見たフェイルロードは、それでも表情ひとつ変えることなく、マサキのことだったね。そう云って、さり気なく話題を戻すと、くらがりの果てにそびえ立っている山を見上げた。
 ――ここに彼がいた期間は短かったよ。君があの研究を始めるより前には、輪廻の輪へと戻されていったんじゃないかな。けれどもクリストフ。マサキはね、ここにいる間、ずうっと物憂げな表情をしながら、あの山のいただにいたんだよ。恐らくは地底世界を眺めていたのだろうね。あの山の頂からは地底世界が良く視えるから。
 そして、付け加えるようにこう云った。
 ――彼は気掛かりなことがあると、よく私に零したものだった。
 ――気がかりなこと?
 ――何かは聞かせて貰えなかったけどね。
 でもそれはきっと。それ以上の言葉をフェイルロードの口が紡ぐことはなかった。
 シュウは確かな答えが欲しかった。独り善がりな研究に、明確な根拠を求めるように。会いたい。たったそれけの、それはシュウが生まれて初めて持ち得た純粋な願いだったからこそ、シュウの待ち人たる彼もまた自分との出会いを求めているのだと知りたかった。フェイルロード、とシュウは従兄弟の名を呼んだ。けれども、捻じ曲がった性格であるシュウの従兄弟でいられるだけはある。フェイルロードはシュウに促されても、続く言葉を口にしようとはせず。
 ――もし君が悲願を果たせずに、この地に堕ちてくるようなことがあったならば……
 代わりにフェイルロードはそう言葉を次いだ。シュウは黙ってそれに耳を傾けることにした。従兄弟の言葉に興味を持ったからではない。ただ言葉を発するのが億劫に感じられるようになっていたからだ。
 ここで得られる情報はもうない。
 シュウの世界は彼を中心として回るようになっていたからこそ、例えそれがかつての自分の信仰の対象であった存在が構築する世界であろうとも、彼の温もりを感じることの出来ない世界である以上は、宇宙に数多に存在する世界のひとつでしかなく。
 きっと、今の自分は相当に退屈そうな表情をしているに違いない。けれどもその表情を、口元に穏やかな笑みを湛えながら、フェイルロードは眺め続けるのだ。こう言葉を重ねながら。
 ――あの山の頂にふたりで行こう、クリストフ。そしてふたりで抱えきれない思い出が眠る地を眺めながら考えよう。彼とどうしたら、彼の地で再び巡り合うことが出来るのかを。
 そうフェイルロードが云い終えた瞬間、山の向こう側にまたひとつ。英霊と祀り上げられた魂が、永遠にも似た長い時を魂の浄化に費やす為に精霊界に堕ちてきた。