Sweet investigation

「ほらよ、甘いものだ」
 目の前のデータに集中するがあまり、シュウは周囲への警戒を疎かにしてしまっていたようだ。
 背後から突如として伸びてきた手。いつの間に――と、一瞬、シュウは怯みかけるも、かけられた声で誰かが知れた。シュウは目の前に突き出されたチョコレートの包みを手にした。ありふれた板チョコは、市場で一山幾らで売られているものだ。
「これはどういった理由があっての貢物です、マサキ」
「一週間も研究に没頭してやがるってチカが飛んできやがったんだよ。いい加減、研究を止めてやってくれって。寝てねえんだろ、ここ三日だか」
「まだ三日ですよ」
「ほら見ろ。まだだと来たもんだ。だから云ったじゃねえか」
 その肩で大人しく羽根を休めているチカにマサキが視線を向けた。
 見た目は立派なローシェンである筈のチカは、時々感情が露わになったような表情をしてみせる。笑い、怒り、泣き……まるで人間のようにくるくると表情を変える彼は、どうやら主人が寝食を疎かにして研究に没頭しているのが気に入らないらしい。不服そうな表情。彼はマサキの肩からシュウの肩へと飛び移ると、シュウの耳元でがあがあとがなり立てた。
「ええ、ええ! まだ三日! そうでしょうとも、そうでしょうとも! どうかすると十日は仮眠だけの生活をしてみせるご主人様のことですからね! 三日なんてまだ序の口! ですが、その前に四日間も研究所ここに篭ってるんですよ! 出てくるのは寝る時だけ! いい加減、その不摂生な生活を改めてください!」
「わかりましたから、チカ。暫くマサキと遊んでいなさい」
 ようやく研究が波に乗ってきたところでそれを中断されなど耐え難い。だからこそ丁度いいお守りを得たとシュウが勧めてみれば、チカに限らずマサキもその案には納得がいかないようだ。
「冗談じゃねえぞ。これでも一応心配して来てやってるんだ。その俺に子守りをしろだと?」
「心配しているというのでしたら」シュウはチョコレートの包みを掲げた。「これは何です」
「疲れた脳には甘いものって云うだろ。差し入れだ。食ってさっさと一段落付けろ。じゃねえと俺が帰れねえ」
「我儘ですよ、あなたは。ようやく四日かけて構築した環境からデータが上がり始めたところだというのに」
「それを一段落付いたって云うんじゃねえかね」
 呆れた風で溜息を吐いたマサキが研究所内を見渡す。
 積層素材構築用の多次元プリンター、コード照射器、回路組み立て用の小型マニピュレーター……科学時代の遺跡を改良して作り上げた研究所には、あらゆる伝手を使って手に入れた最新の機材が揃っている。その価値がわかるのだろうか。ウエンディが見たら僻むぜ。マサキがぽつりと呟いた。
「これだけの設備がありゃ、お前のやりたい研究なんて三日で片付くだろ」
「私が望む実証環境を作り上げる為には、これだけの機材があっても足りないぐらいですよ」
「はあ」気の抜けた声を出したマサキが、首を掻きながら云う。「まあ、いい。とにかくそれ食って寝ろ」
「私を寝かせに来たのですか、あなたは」
 シュウは露骨に眉を顰めてみせた。今さっき口にした通り、構築した環境が熟し、ようやくデータを吐き出し始めたところだ。映画で云えば、序盤の説明が終わったばかり。ここで上映が終わろうものなら、映画館はブーイングの嵐となるだろう。
 少しぐらいは経過を見なければ高ぶった神経が収まりそうにない。
 だからこそ、シュウはデータを吐き出しているモニターを注視していたのだ。だのにマサキと来た日には、それなりの付き合いでありながら、そういったシュウの気持ちにはとんと想像が及ばない様子でいる。
「寝なきゃ進まないモンもあるだろ。何より俺が帰れねえ」
「先程からそればかりですね、あなたは。来たばかりでもう帰るとでも」
「お前が研究の虫になってるのに、居座って何が出来るんだよ。つまらねえから帰るぞ」
「わかりました」シュウは折れた。「どうせデータの取得には一ヶ月ほどかかりますしね。あなたの相手をしましょう、マサキ」
 研究に、マサキ。どちらを取るかと聞かれれば、シュウの答えはひとつだった。
 気紛れに自分の許を訪れては、気紛れに過ごして帰って行く。風のような青年マサキ。彼が本格的に機嫌を損ねてしまうより先に、自分が折れた方が充実した時間を過ごせるに決まっている。そう決断を下したシュウに、けれどもマサキは困り顔だ。
「何を云ってるんだお前は。寝ろって云ってるんだよ」
「退屈なのでしょう」
「いや、そりゃそうなんだけどよ。その前に少しは寝ろよ」
「起きたら相手をしてくれるの?」
 チョコレートを片手にマサキに迫れば、彼はうん、と云わないことには話が収まらないことに気付いたようだ。
「わかったよ。居るよ。居ればいいんだろ。だからそれ食って、さっさと寝ろ。寝てる間に飯の準備ぐらいはしといてやる」
 憮然とそう云い放つと、ほら行くぞ。と、シュウの衣装の袖を引いたマサキが居住スペースへと向けて歩を進めた。本当に? シュウは訊ねた。風のように現れて風のように去ってゆく彼は、寝ている間に姿を消してしまいかねない。
「男に二言はねえよ」
 それならいい。シュウはマサキの言葉に深く頷いた。
 やっぱりマサキさんですよねえ。何に感心しているのか。シュウの周りを舞い飛びながら、チカがしみじみと呟いた。