その手を掴めない

 あの日もこんな風に、突然の雨に晒された。
 具体的にいつとは思い出せなくなってしまったぐらいに過去の話だ。うららかな陽気に誘われて、マサキが公園のベンチで眠ってしまったあの日。激しく頬を叩く水滴に驚いて目を開くと、いつの間にか空に流れ込んだ厚い雲の群れが、ざあざあと音を立てながら強く雨を降らせているところだった。
 急いで公園を出て、手近な建物の軒下に身体を収めた。
 中々弱まらない雨足に、そろそろ濡れるのを覚悟で軒下を出るべきかとマサキが焦れ始めた頃、少し離れた通りを見知った長躯が通り過ぎたように見えた。
 傘に隠れて見えない顔。けれども彼らしさが窺える衣装。何処かで買い求めたと思しき真新しい傘を差して、ゆったりと雨の街を往く彼は、直ぐそこで濡れた身体を休めているマサキの存在には気付かなかったようだった。やがて建物の合間に消えて行った後姿に、マサキは何故か物足りなさを感じたものだった。
 そこまで思い出したマサキは目を開いた。
 大きく葉を繫らせている街路樹は、その隙間から雨の雫を滴らせたものだ。それでも動かそうと思えない足。決して居心地のいい場所とは云えない場所に、雨避けの役割を求めてしまったマサキは、直ぐそこに幾らでも軒下のある通りにいることはわかっていた。けれども、濡れ鼠と呼ぶに相応しいまでに雨を含んでしまった衣装。幾人もの人々が雨から逃れて身体を休めているその場所に、だからこそマサキは足を踏み入れるのを躊躇ってしまった。
 どうしようもなく混乱している自分の姿が、濡れた衣装に現れている気がした。
 そのみっともない姿を、間近で他人の目に映したくない……そろそろ冷え始めた手足。替えの服は積んである。諦めてサイバスターの許に戻るべきだろうか。ようやくそこまで考えが及ぶようになったマサキは、騒々しい二匹の使い魔と顔を合わせる気まずさやいたたまれなさを思って、中々一歩を踏み出せなかった足。それをそろりと街路樹の外に出してみた。
「もう少し、雨足が弱らないもんかな……」
 あっという間に靴の中にまで染み込んで来る雨。どうせここまで濡れてしまったのだ。長い距離をサイバスターまで、降りしきる雨に打たれながら戻るのも一緒だろうに。わかっていても、マサキは雨の中に出られない。ただ、空を流れゆく重苦しい雲の群れが、まるで自分の心のようだと感じるぐらいには、心に抱えてしまった空虚さが薄れつつあるようだ。ゆっくりと動き始めた己の思考に、マサキはほうっと大きく息を吐く。
 そうして、顔を上げて雨の街と向き合う。
 心なしか、傘を差して行き交う人の数が増したように思える。きっと、街に溢れるいずれかの店で傘を手に入れたのだろう。ビニール傘が数多く見られる中、いかにも女性らしい色合いの傘がひとつ。人の流れに逆らうように、マサキの許に近付いてくる。
 マサキ、と名前を呼ばれるより先に、それが誰であるかマサキは気付いていた。
「風邪を引きますわ。取り敢えずはこの傘を使ってくださいませ」
 差し出された傘を躊躇いがちに受け取って、すまないなと口にしながら、マサキは辺りを窺った。いつ自分の存在が彼らに知られてしまったのだろう。焦る気持ちを覚られないように、開いた傘の下。視線をそうっと滑らせて。
 少し離れた道の上に、頭ひとつ抜け出た彼の姿。
 先程見せていた穏やかな笑顔を微塵も感じさせない巌のような表情。眉を顰めているようにも映る。あんな風に笑えとは思わなかったものの、もう少しばかり穏やかな表情を向けてくれてもいいものを。彼のその表情に自分と彼の距離が現れているような気がしたマサキは、いたたまれなさに咄嗟に傘で顔を隠してしまっていた。
「サイバスターで来ているのでしょう? 身体が冷え切らない内に戻ってくださいね、マサキ」
 耳に届く彼女の言葉に、マサキは頷くのが精一杯だった。
 そのまま彼の許に小走りに駆けて戻って行く彼女の背中を見送る。そして、マサキもまたその場を立ち去ろうとして、はあ、と重苦しく息を吐いた。
 帰り道はもう思い出せなかった。

あなたに書いて欲しい物語3
yuriさんには「雨が降っていた」で始まり、「優しい風が吹いた」がどこかに入って、「君の背中がやけに遠く見えた」で終わる物語を書いて欲しいです。