キスを止めないで

 いつも通りに犯罪まがいの手法で呼び出されたマサキは、彼の家に辿り着くなりソファの上に押し倒された我が身に、地上で生活していた頃の記憶を呼び起こされずにいられなかった。
 近所の家で飼われていたゴールデン・レトリバー。どうやら人好きの過ぎる犬らしい。散歩の途中で出会った人間に誰彼構わず飛び付いていく彼は地域の人気者だったけれども、二本足で立ち上がれば子どもの上背を超える大型犬。全力で尻尾を振りながら顔を舐めてくる彼に、子どもたちは押し潰されないようにするのが精一杯だった。
「何を考えているの?」
 キスの最中に考え事をしていたことを見通されていたようだ。口唇を離してひっそりと笑ったシュウが、罰ですよ。そう云って再び口唇を重ねてくる。マサキはそっとその頭に手を回した。指に柔らかく馴染む猫っ毛気味の髪の感触に、あの犬もこんな毛並みだったと思い出す。マサキはつくづく大型犬のような男だと、シュウに対して思わずにいられなかった。
 思い立ったがいざ吉日。自らの気の向くがままにマサキを呼び出してくる男は、鋭い刃物のような相貌とは裏腹に気安くマサキに甘えてきたものだった。時に膝枕に頭を埋め、時に気紛れに口唇を合わせてくる……きっとそれはそれまでの彼の立場が関係しているのだ。元王位継承権保持者。気を緩めれば喉元に噛み付いてくるような王侯諸族に囲まれて生きることを余儀なくされた彼は、心を許せる相手もそうなく王室で暮らしてきたのだそうだ。
「何だよ。まだ……」
「あなたが何を考えているのか知りたいのですよ」
 離れたと思えば触れてくる口唇が、繰り返しマサキの口唇を啄んでは舌を差し入れてくる。それに緩く舌を動かして応じてやりながら、これじゃ話せないだろ。占有欲の強さが窺える彼の振る舞いに、マサキは半ば呆れるような気持ちでいた。
 さりとて、そうした彼の振る舞いに嫌気が差している訳では決してない。
 あのゴールデン・レトリバーもそうだった。確かにマサキは体重を全てかけて圧し掛かってくる彼に何度も地面に転がされたものだったけれども、だからといって憎々しいなどと思うことはなかった。それと同じだ。ただただ愛おしい。全身で愛情を表現してくるシュウの素直さは、どこかで他人に対して構えずにいられないマサキの頑なな心を溶かしくれる。
「まだ話す気にはならない?」
「どうやって話すんだよ。ずっと口唇を塞いでおいて」
 けれどもそれを口にするのには勇気が要った。
 マサキに甘えてくるシュウは、それと同じ熱量でマサキを甘やかしてきたものだった。服を着せては、食事を手ずから食べさせる。風呂に入れば身体を洗ってくるのも当たり前だったし、眠りに就く時にはベッドまで運んでくれもした。こうと決めたが最後、決してマサキに何かをさせることがない。シュウはいざマサキを甘やかすとなると、何を差し置いてでもマサキを中心に動いてくれるのだ。
 だからこそ、その優しさに溺れてしまうのが怖かった。
 自らの胸の内を明かせば、この男のことだ。きっと今以上にマサキに甘え、そしてマサキを甘やかしてくることだろう。そう、幸せという言葉の意味を理解させるように。それを日常として受け入れさせられるのが怖いなどと口にしようものなら、何を贅沢なことをとマサキの仲間たちなどは呆れるに違いない。けれどもマサキは真面目に恐れているのだ。いずれ訪れくる別離。身に余る幸福に慣れてしまった自分は、果たしてその寂しさに耐えられるだろうか?
 どちらが長く生きるかなどといった仮定の話をし出したら際限がないことはわかっていたけれども、悲劇はいつだって前触れなく訪れるものだ。マサキの両親とてそうだった。ある日、じゃあと云って別離わかれたきり永遠に姿を消してしまった。ましてや戦場に身を置くことも多い生き方をしている自分たちの先の人生など、どうすれば保証が出来たものか。
「口唇を離したら話してくれるの?」
 云う割にはキスを止める気のないシュウに、それよりもとマサキはその頭を引き寄せた。息がかかるほど近くに顔を寄せて、もっと。と囁きかける。静かに微笑んだシュウの満ち足りた眼差し。間近にマサキの顔を捉えていた彼は、ややあって、その言葉に応えるように深く口唇を合わせてきた。
 この程度のささやかな幸せでいいのだ。
 マサキは喉を鳴らしながら、シュウの熱い舌を口の中に収めていった。