不機嫌な口唇

 まんじりとしない気持ちでベッドの中にいた。
 一睡も出来ずに迎えた朝。遅くても日付が変わる頃には戻るとマサキに告げて、昔の知人とやらに会いに行ったシュウが家を出てから既に十一時間が経過している。何か不測の事態でも起きたのではないだろうか。自信が服を着て歩いているような男は、それに見合ったステータスを有しているからこそトラブルに見舞われ易い。
 マサキはちらと時計を見た。先程時刻を確認してからまだ三十分しか経っていない。もう三十分経っても戻らなかったら探しに出よう。区切りを半日と決めたマサキはベッドを出て、いつの間にか寝室のクローゼットに溜まるようになっていた自身の服を眺め見た。
 持ち込んでは持ち帰るのを忘れたマサキの服の数々に、シュウは文句を云うことはなかった。それどころか彼はいつの間にかクローゼットの中にチェストをひとつ増やすと、そこにマサキの服を収めてくれたものだ。そろそろ少しは持ち帰らないとな。チェストから溢れ始めた服に、マサキはひとり呟く。
 今日の服を決める。いつもは適当に手近にある服を引っ掴んで着ているマサキでも、シュウの知人と顔を合わせるかも知れないとなれば話は別だった。そもそも彼の知人というのは、日々を優雅に過ごしている有閑階級にある。暇を持て余している彼らは、マサキを目の前にすると物珍しさが勝るのだろう。不躾にも値踏みするような視線を送ってきたものだ。
 それではさしものマサキも、見栄えを気にしもしようというものだ。
 彼らの鑑賞に耐え得る衣装。機会があるごとにシュウが選び買い与えてくれた衣服の中から幾つかを組み合わせて、ようやく今日の服装を決めたマサキは、今の時刻を確認すべく再び時計に目を遣った。服に頭を悩ませた時間は結構なものに感じられていたものの、実際には十分も経っていない。本当にあの野郎、何をしてやがるんだ。ひとり愚痴を零しながら、マサキはいざ着替えと夜着から袖を抜こうとした。
 カタン、と玄関から聞こえてくる物音。
 まさか、とマサキは思った。そんな偶然があってたまるか。今まさに家を出る準備を始めようとした矢先に、探し尋ねようと思っていた当の本人が姿を現す。あってはならない事態に、そう、これはきっと屋鳴りに違いない――、マサキは思い直した。
 けれども次いで響いてくる足音に、機嫌が急転直下する。滑るように床を踏みながら近付いてくる気配。無事の帰宅が喜ばしいことだとわかっていても、連絡ひとつなく放置されたのだ。ひと晩心配を続けたマサキとしては、その変わり映えのしない足音が憎々しく感じられて仕方がない。
 はあ。と盛大な溜息が口を吐く。
 マサキは直ぐに寝室に姿を現すに違いない男をどう出迎えるか考えた。寝室のドアのノブが回る。ああ、腹が立つ。マサキはドアの前にこれみよがしに立った。そして姿をみせたシュウと真正面に向き合った。
「起きていたの、マサキ」
 これで何度目のことになるだろう。マサキが滞在しているのにも関わらず、後から予定を組み込んで出掛けて行っては、連絡を寄越すこともなくひと晩家を空け、マサキが寝付くの見計らったかのように朝方になってから帰宅を果たす。
 それなのに悪びれることのないこの男。
 ただただ面白くない。起きてるに決まってるだろ。マサキは云って、ベッドに向かった。
「これは機嫌が悪そうだ」
 どうやら呑んできたらしい。シュウは上着を脱いだだけの格好でマサキの隣に滑り込んでくると、微かにアルコール臭が漂う息を吐き出しながら、好きですよ、マサキ。と、マサキの身体を背後から抱き寄せて、何の解決にもならない言葉を口にした。
「お前なあ、そういう言葉じゃいい加減誤魔化せないって気付けよ」
「申し訳ないとは思っていますよ」
「嘘吐け。思ってたらそんな台詞が口に出るか。そこは先ず謝罪だろ」
 そうマサキが口にしてもシュウは謝る気はないようだ。こっちを向いて。と、マサキの身体を返して抱き直すと、それがさも当然とばかりに口付けてくる。
「誤魔化されないって云ってるだろ」
 それでもシュウはマサキに口付けるのを止めはしない。
「遅くなるなら連絡ぐらいは寄越せよ」
「場の盛り上がりに水を差すような真似はしたくなかったのですよ」
 ひとつ口付けては、マサキの顔を見詰めてもう一度。
「俺を放ったらかしにするのはいいって?」
「きっと待っていてくれると信じていましたよ」
 そしてひとつ言葉を交わしてはもう一度。
 繰り返し、繰り返し、口付けられては愚痴を吐くマサキに、それでもシュウは口付けることを止めなかった。彼はまるでマサキの不満を飲み込むかのように口唇を重ねてきては、その機嫌を確かめるように舌を絡めてくる。
 緩やかにマサキの口内を探っている舌先が、抜かれたかと思えば舌を捉えにくる。次第に長さを増してゆく口付け。愚痴を吐けど抵抗はしないマサキに、きっと大丈夫だと感じたのだろう。シュウはマサキの身体を自らの身体の下に引き入れると、覆い被さるようにして更に。マサキの口唇を貪ってくる。
「寝るからな」
「わかってますよ。私も眠い」
 それでも繰り返される口付け。長く、深く、互いの舌を探り合っては、終わりを先延ばしにするように。そして再び口唇を重ねては、薄く開いた口唇の隙間へと、どちらともなく舌を滑り込ませてゆく。
 けれども、数え切れないほどに口付けを交わして、髪や頬を撫でるシュウの手に心地良さを感じるようになっても、マサキは自らの意地を引っ込めようとは思えなかった。許した訳じゃないからな。シュウの為すことに身を委ねながらも、そう口にすれば、執念深い。シュウは深刻には捉えていない様子で、揶揄うように言葉を吐いてきた。
 怠惰な生活態度とは裏腹に、シュウ=シラカワという人間は、人間関係をアクティブに構築してゆくタイプなようだ。今はこうしてマサキと触れ合っていても、誘いがあれば西へ東へ。簡単にマサキを置いて出て行ってしまう男の態度を、どうやれば改めることが出来るのか。マサキにはわからない。
「大体お前は何なんだよ。帰って来るなり碌に人の話も聞かずに」
「あなたと離れていると、あなたが恋しくて仕方がなくなるものですから」
 しらと云ってのけたシュウに、だったら出掛けるんじゃねえよ。マサキは呆れずにいられなかった。それに対してシュウは、まだまだマサキに触れ足りないといった様子で、再び口唇を近付けてきながらこう言葉を吐くのだ。拗ねているあなたの顔が、時々無性に見たくなるのですよ、マサキ――と。