家族の肖像

 リビングのソファに座って新聞を読んでいるゼオルートを、プレシアとふたり、肩を寄せ合うようにしてダイニングの柱の影から見詰めていた。
 自宅では寛いで過ごすのが信条ポリシーらしい。衣装の襟元を緩めて、丸眼鏡の奥の瞳を瞬かせながら、隅から隅まで丁寧に新聞を読み進めているゼオルートは、マサキとプレシアが自分を見ていることには気付いていないようだ。
 ほら、おにいちゃん。プレシアに背中を叩かれたマサキは、本当にやるのかよ。小柄な彼女を見下ろして尋ねた。
 小さくともしっかり者の義妹は、時々マサキを顎で扱き使うような真似をしてみせる。今朝もそうだ。ベッドの中で微睡んでいたマサキを箒で叩き起こした彼女は、今日が何の日か早口で告げると、有無を云わせず着替えを済まさせて、ダイニングまでマサキを引っ張ってきた。
「当たり前でしょ。おにいちゃんがやらなかったら、あたし何も準備出来ないんだから」
 小声で囁くように言葉を吐くプレシアに、マサキはうーん。と唸って宙を睨んだ。
「でもなあ、そんな都合のいい口実をどうやって考えろって」
「何でもいいから早くお父さんを家から連れ出して。大丈夫。おにいちゃんの云うことなら、お父さんちゃんと聞くから」
 痺れを切らしたプレシアが、どん、とマサキの背中を力任せに押した。小柄な少女とは云えども、そこは剣聖の娘。見た目以上に力があるプレシアの一突きに、よろけて柱の影からはみ出る形になったマサキは、仕方がねえ。腹を括ってゼオルートの許へと歩んで行った。
「おや、マサキ。起きたのですか?」
 流石にゼオルートも目の前に立ったマサキには気付いたようだ。新聞から顔を上げるとマサキに微笑みかけてくる。
「あー、うん。やっと起きた」マサキは壁時計を見上げた。
 既に正午間近となっている時刻に、気まずさを誤魔化すように頭を掻けば、気にすることはありませんよ。畳んだ新聞をソファに置いたゼオルートが鷹揚にも云ってのける。彼はマサキがどれだけだらしなく日々を過ごそうとも、いざという時に動ければ問題ないと考えているようで、マサキの生活態度に文句を付けてくることは先ずない。
「良く寝て良く食べる子は良く育つとも云いますからね」
「育つばかりじゃ駄目だろうよ。中身が伴わないと」
「なら、今から外に出て一戦交えますか」
 早くもソファから腰を浮かせたゼオルートに、そういうんじゃねえよ。マサキは慌ててその肩を押さえ付けた。
「そうじゃなくて、えーと……」
 プレシアから命じられているのは、夕方までこの館からゼオルートを引き離すことだ。その内容や手段の如何は問わないと云われている以上、剣の稽古でも全く問題はなかった。ただ、大らかな態度を崩すことなく、厳しい訓練をマサキに課してみせるゼオルートのすることである。その後のスケジュールを考えると、体力を消耗してへばってしまうのはマサキとしては避けたいところである。
「買い物に行きたいんだ」
「買い物?」
「服がそろそろ駄目になってきててさ、下着とか、シャツとか、新しいのが欲しいんだよ。でも、俺ひとりじゃ迷っちまいそうだから、おっさんに付き合って欲しいんだけど……」
 自身の提案を無下にされたとはいえ、マサキの願いを叶えるのは吝かではないらしい。ええ、と微笑んだゼオルートは、独立心が強く依存心に薄い養子が自分を頼ってきたことが嬉しかったのだろう。相好を崩してマサキに向き直った。
「そういうことでしたら、一緒に街に出ましょう」
 弾む声。言葉の端から喜びが滲み出ている。
 マサキとしては、ゼオルートの父性に付け込んでいるような気がして心苦しくもあったが、これも可愛い義妹たるプレシアの願いを叶える為。後ろめたさを押し殺して、今度こそきちんとソファから腰を上げたゼオルートに、じゃあ、行こうぜ。マサキはぎこちなく笑いかけた。
「無理はしなくともいいのですよ」
 まるでマサキの心を見透かしているような言葉。ゼオルートはマサキの頭にぽんと手を置くと、一足先に玄関に向かって行った。

※ ※ ※

 誕生日なのだそうだ。
 愛娘の誕生日を盛大に祝ってみせる養父は、自身の誕生日には全く頓着しないらしく、プレシアがプレゼントに欲しいものを尋ねても碌に答えることがないのだとか。それだったらせめて豪華な料理を揃えて、きちんとした誕生日の席を設けてやりたい。彼女の望みに、尤もだとマサキは頷いた。
 それとマサキがゼオルートを連れ出す話がどう関係してくるのかというと、プレシアとしては父親の目の届く場所でその支度をするのが堪らなく嫌らしい。他にプレゼントらしいプレゼントのない誕生日。だったらせめてパーティを始めるその瞬間まで、その祝いの席に並ぶメニューがが何であるかわからないようにしたい。
 その考えもわからなくはない。
 要はプレシアはゼオルートにサプライズを仕掛けたいのだ。
 起き抜けのマサキ相手に早口で捲し立ててきた彼女は、時間のなさにかなり焦っている様子だった。無理もない。夕方までは5、6時間ほど。どれだけの料理を準備するつもりでいるのかは不明だが、家事が得意なプレシアのことだ。きっと相当に豪勢な料理を準備するつもりでいるに違いない。手の込んだ料理も面倒臭がらずに作ってみせる彼女にとって、時間はあればあっただけ目的に適う。
 ――夕方までは絶対に帰って来ちゃ駄目だからね! 約束だよ、おにいちゃん!
 かくてプレシアに背中を押されたマサキは、適当な用事をでっちあげてゼオルートを街に連れ出すことに成功したのが、いざ彼女がパーティの支度を終えるまで時間稼ぎをするとなると、買い物ひとつ程度の用事では用を足すのに満たない気がしてならなくなった。
 それもこれもゼオルートの厄介な性格の所為である。彼は日常生活に修行の要素を盛り込むのが好きらしく、掃除のついでに体力づくりをさせるなどといったことなどは日常茶飯事だったが、よもやたかが買い物出掛ける道にまでにそうした要素を盛り込んでくるとは――。街に入ったマサキは、にこにこと満面の笑みを浮かべて立っているゼオルートに愚痴めいた言葉を吐かずにいられなかった。
「魔装機で駆けっことかどういう神経してんだよ、おっさん」
「いい訓練になったでしょう、マサキ」
「訓練とかそういう問題じゃねえよ。偶にはゆっくり買い物って思ってたのに」
 時間稼ぎをしたいマサキとしては、公共交通機関を使ってゆっくり街に出るつもりであったのだが、腐っても剣聖として数多くの弟子を育て上げてきただけはある。ゼオルートはそうのんびりとマサキに用事を済まさせる気はないようで、当然とばかりに魔装機に乗り込むと、街にどちらが先に着けるかと競争を仕掛けてきた。
 勿論彼のことだ。決定的にマサキを置いて行くような真似はしなかったものの、プレシアから時間稼ぎを命じられているマサキとしては肝が冷えること他ない。ましてやマサキは極度の方向音痴なのだ。彼のこうした振る舞いはいつものこととはいえ、独断専行に走りかねない彼のいきなりの振る舞いに、マサキは先行き不安な思いに囚われずにいられなかった。
「ゆっくりしたかったのですか、マサキ」ゼオルートの丸眼鏡の奥の瞳が瞬く。
 とはいえ、マサキの言葉を聞き留める余裕はあるようだ。わざわざ尋ね返してきたゼオルートに、マサキはなるべく不自然にならないよう言葉を選んで答えた。
「せっかちにするもんじゃないだろ、買い物って。安物買いの銭失いって云うしよ。下手な物を掴まされちゃ堪ったもんじゃねえ。ましてや服なんだぜ? あっという間に傷んじまったら元も子もないだろ。多少は吟味をしないことには、長く着れる服は買えねえしな」
「ちゃんと考えていたんですねえ」これは意外と表情を変えたゼオルートが、マサキの頭に手を置く。「大丈夫ですよ、マサキ。流石に街の中では何もしませんよ。下手にはぐれられてしまっては、あなたを探すのが難しくなりますからね」
「子どもじゃねえっての」マサキはその手を払った。
 確かにマサキは目を離されたが最後。どこまでも果てしなく迷っていける才能を有している奇特な人間ではあったが、だからといって年齢に対する自尊心を失ってしまうまでに意気地のない人間でもない。地上世界ではさておき、地底世界では立派な成人。自覚があるからこそ自身の扱いに反抗してみせれば、それをゼオルートは駆けっこの所為だと思ったらしかった。
「帰りは普通に魔装機を操縦して帰りましょう」にこやかに云ってのける。
「そうしてくれよ。制限時間を意識しながら家に帰るなんて、愉しくもなんともねえだろ」
「ちゃんと家だと思ってくれているんですねえ」ゼオルートが再びマサキの頭に手を置く。「嬉しいですよ、マサキ」
 時にまるでよちよち歩きの赤子を愛でるようにマサキを扱ってくるゼオルート。彼の父性はマサキを安心させる時もあれば、居心地悪く感じさせることもままある。こういう時は後者だ。やたらとマサキを構ってきては過剰なスキンシップを試みてくるゼオルートは、マサキがどれだけ拒否を繰り返しても挫けるということを知らない。
 マサキは溜息をひとつ洩らした。
 いつだったか、男の子も欲しかったんですよ。そう云ったこともあったゼオルートは、その望みが叶ったからだろう。プレシアを構うようにマサキを公衆の面前でも構ってみせたものだ。
 それがマサキの落ち着きを欠かさせるとは、思ってもいないようだ。毛先が乱れるのもお構いなし。くしゃくしゃとマサキの髪を撫でているゼオルートに、本当に、おっさんはよ。マサキは口唇を尖らせた。
「ところで、マサキ。朝食は食べたのですか」
「いや、まだだぜ。街で食えばいいかと思ったしさ」
 その言葉にマサキの頭から手が離れる。店を探すように大通りへと目を遣ったゼオルートに、マサキもまた大通りを埋めている人波に目を遣った。祭日でもないにも関わらず賑わう大通り。その両脇には様々な店が軒を連ねている。
 喫茶店、レストラン、洋品店に宝飾店。骨董屋があれば古書店もある。これだけの種類の店があれば、ただ通りを歩くだけでもかなりの時間を潰せそうだ。マサキはプレシアの頼みを無事にこなせそうな見通しが立ったことに、ほっと胸を撫で下ろした。
 とはいえ、腹が空いているからだろう。仄かに漂ってくる食べ物の匂いが食欲をそそって仕方がない。喉の奥に溜まった唾液もさることながら、鳴り止まぬ腹。そのマサキの様子が目に余ったのだろうか? ゼオルートが笑いを堪えきれないといった様子でマサキを振り返ってくる。
「聞こえますよ、マサキ」
「悪かったな。腹が減ってるんだよ」
「なら、先ずは食事にしましょう。私もそろそろお腹が空いてきましたよ、マサキ。あなたは何か食べたいものはありますか」
 云われたマサキは考えた。肉に魚、ライスにパスタにサンドイッチ。選べる料理は山程ある。
 通りに面しているレストランや喫茶店もさることながら、中央に停まっているキッチンカーも魅力的だ。食べ歩きに丁度いい串焼き、フライドポテト、フィッシュ&チップス……デザートに持って来いなアイスやクレープ、ドーナッツもある。
 どれにするかな。マサキは宙を仰いだ。
「ゆっくり選びましょう。食事は逃げませんから」
 ゼオルートの言葉に従って、マサキはひたすらに考え抜いた。白米と焼き魚、パンとハンバーグ。空腹のときに食事を選ぶ瞬間ほど、人を優柔不断にさせるものもない。脳裏に思い浮かぶ料理のどれもが美味しそうに感じられて仕方がなくなったマサキは、そこから更に三分ほど。悩みに悩んだ末に口を開いた。
「ハンバーガーにする」
 もっとしっかりとした昼食を摂っても良かったが、この後のこともある。
 今頃、館に残ったプレシアは腕によりをかけたパーティ料理を用意していることだろう。その料理を残さない為にも、ここは腹八分目で済ませておくべきだ。
「好きですねえ、肉料理」
 日頃、好んで肉料理ばかりを口にしているのを見ているからか。マサキの言葉にゼオルートが呆れた表情を浮かべる。悪かったな。頬を膨らませてマサキは云った。あんたの娘の為だよ――と、つい口を吐いて出そうになる言葉を飲み込む。
「いいから早く飯にしようぜ。腹が減った」
 代わりにそう言葉を継げば、知っている店がありそうだ。ゼオルートが通りを折れる道を指差してみせた。
「ハンバーガーなら、そこから少し入った所にある店が美味しいですよ」
「本当かよ。あんたの味覚は俺と合わない時があるからなあ」
 ゼオルートが差し示した道は、大通りと比べると遥かにひっそりとしている。果たしてその先に本当に店があるのだろうか? そう思いたくなるぐらいに静けさに満ちた通り。不安になったマサキは視線を大通りに戻した。
 昼時となったことでいっそうの賑わいをみせている通りには、そこかしこに人垣がある。キッチンカーのデザートに群がる若者たち、レストランで順番を待つ家族連れ……独りでゆっくりと食事を愉しみたいらしい人々が喫茶店のショーケースを眺めているのをマサキは目にしながら、「それに、こういう時は大通りの店で済ますもんじゃないのかね」
「あなたがどうしてもそうしたいというのであれば、そうしますよ。どうしますか、マサキ。取り敢えず大通りを歩いてみますか」
「そうだな……」マサキは悩んだ。
 食事をして、買い物をする。それでプレシアがパーティの準備を終えられるだけの時間を稼がなくてはならない。公共の交通機関を使っていればまだしも、帰りも魔装機を足に使う以上、その道程で時間を稼ぐのは無理だ。
 行こうぜ、おっさん。マサキは芋の子を洗うように人が押し寄せている大通りへと足を踏み出した。
 恐れることなく人波の中へと踏み入れて行ったマサキに焦ったようだ。ああ、マサキ。待ちなさい。ゼオルートが慌ててマサキのジャケットの袖を掴んでくる。「あなたはどうかすると直ぐにはぐれてしまうのですから、気を付けないと」
「ああ、うん。まあそれは……」マサキは鼻の頭を掻いた。
 西に向かったと思えば北にいる。東に向かったと思えば来た道を戻っている。そのぐらいに極端な間違いが日常茶飯事なマサキに、さしものゼオルートも心配が尽きないようだ。ほら、掴んで。自身の衣装の裾をマサキに掴ませながら、ゼオルートが云い聞かせてくる。
「いいですか、マサキ。迷ったら、その場でじっとしていること。探すのは私の役目です。動き回られては見付けられるものも見付けられなくなってしまいますからね」
「子どもじゃないんだがなあ」
「そうでもしないとあなたは果てしなく迷い続けてしまうでしょう」マサキが自身の衣装の裾を掴んだのを確認したゼオルートは、それで幾許か気持ちを楽にしたようだ。穏やかに微笑んでみせると顔を上げた。「先ずは左側の店を見てみましょう。あなたが気に入る店があるといいですね」

※ ※ ※

 レストランに喫茶店、キッチンカーと、五百メートルほど続く大通りにある食べ物屋を全て見て回ったマサキは、様々な店のハンバーガーを見ている内に、どれが一番自分の食指を動かすものなのかわからなくなった。
 牛肉100%、自家製バンズ、農家直送野菜……謳い文句も様々なハンバーガーは、どれも美味しそうに映ったものだった。しかしその中からひとつを選べと云われると、どれも決定打に欠けるように思えてならない……結局、ゼオルートから最初に勧められた店に入ることにしたマサキは、彼の衣装の裾を掴みながら大通りを戻ることになった。
「なんか、悪いな。結局どれにするか決められなくて……」
「構いませんよ。こういうものは見ているだけでも愉しいものですからね」
 大通りを折れた先にある路地。人もまばらな道を暫く行った先にあるこじんまりとした喫茶店は、メニューの看板がなければ民家と間違えてしまいそうなぐらい、辺りに馴染んでいた。カランカランと鳴るベル。ゼオルートに先導されるがまま店の入り口を潜ったマサキは、点々と埋まっている座席の奥に居場所を定めると、早速メニューブックを開いた。
 手捏ねのパテと自家製のバンズに野菜をたっぷりと挟んだハンバーガーは、店の看板メニューであるらしい。メニューブックの始まりに料理名が記されているハンバーガーに、マサキは期待に胸を躍らせた。
「ここのハンバーガーは、肉にしっかり味が付いていて美味しいですよ」
 そう勧める割には、自身はパスタで昼食を済ませるつもりでいるらしい。マサキの分も一緒に注文オーダーを済ませたゼオルートは、流石に喉が渇きましたね。テーブルに届けられた水を飲んで、はあ、と大きく息を吐いた。
「ところで、買う物は下着とシャツだけですか」
「靴も欲しかったりするけどな。割と直ぐ駄目になっちまうし」
「靴は大事ですね。剣技の型は足にあり。きちんと大地を踏みしめられなければ、剣を振るのでさえままならなくなります。その為にもちゃんとした靴が欲しいところですね。そういえば、大通りにオーダーメイドの靴屋がありますよ。どうです、行ってみますか?」
「オーダーメイド……か」思いがけず大きくなった話に、流石にマサキも躊躇った。「そこまで大袈裟なことにしなくてもいいんだけどな」
 着るもの履くもの既製品ばかり。これまでそういった生活しかしてこなかったマサキからすれば、自身の身体に合わせて作られる一品物の商品は不相応な品でしかなかった。背伸びをしても追い付けない高根の花。長持ちはするが、その分高く、手入れの手間もかかる。マサキの中のオーダーメイド商品に対するイメージはそれだ。
「既製品を使うよりは長持ちしますよ。靴は万事の元。きちんとしたものを誂えても損はないでしょう」
「でも、手入れとか面倒なんだろ」
「大した手入れは必要ありませんよ。湿気を避けておくぐらいで充分に長持ちします」
 決してまめまめしい性格ではないことに自覚があるマサキは、オーダーメイドという言葉だけで弱腰になったしまったものだが、そういったマサキの性格を知っている筈のゼオルートは呑気なもの。試しに一足だけ持ってみてはと更に話を広げてくるゼオルートに、うーん。マサキは唸った。
 稽古を付けてもらっただけでも底が薄くなる今の靴に不自由を感じている。既製品を使い続ける限り、その不自由からは逃れらないだろう。そう考えると、目的に合わせて作ってもらえるオーダーメイドの靴は魅力的だ。
「いや、でも、やっぱり手入れが出来る気がしねえ」マサキは首を振った。「それに、オーダーメイドってなっちまうと、日常的に履くのには勇気が要るだろ。ましてや稽古なんかで履き潰すのが前提なんだし。俺としては、もうちょっと気軽に履ける靴の方が……」
「まあまあ、マサキ。そこまで堅苦しく考えることはないですよ。取り敢えず見てもらうだけ見てもらってみて、その上で作るかどうか決めてもいいでしょう。まだ時間はたっぷりありますしね。いずれにせよ、靴はきちんとしたものを履かなくてはなりませんよ。何をするにしても足が資本なのですから」
「健康オタクみたいなことを云うな、おっさん」
 テーブルに届けられたドリンク。店員からグラスを受け取ったマサキは、これで話に区切りが付かないかと思いながらそれに口を付けた。仄かな酸味が利いた甘いオレンジジュース。蜂蜜入りと書かれていたが、そこまで甘ったるい感じはしない。
「剣技というものは、身体のバランスの取り方で型が変わるものであるのですよ。あなたは本能的にしていることですが、本来、自分が思った通りに剣を振れるようになる為には、足の力を身体にどう伝えるのかが重要で――」
「待った」マサキは手を突き出してゼオルートを制した。「そういう話はまたの機会にしてくれ」
 確かにマサキがこの街に足を運んだのは、プレシアにゼオルートを外に連れ出すように頼まれたからではあったが、日頃ラングランの雄大な自然の中で過ごしてばかりとあっては、久しぶりの街の賑わいを気兼ねなく愉しみたくもなったもの。
 そう考えるとやりたいことも見えてくる。
 射的にスマートボール、くじ引き……買い物のついでに遊んで行くのも悪くない。何せ時間を潰せば潰しただけ、準備に時間をかけたいプレシアの思惑に沿うのだ。マサキは今後のスケジュールを頭の中で組み立てた。まさか手ぶらでパーティの席に着く訳にも行くまい。どこかでゼオルートへのへのプレゼントも手に入れなければ。
「靴の話を持ち出したのは、あなたなんですがねえ」
 そういったマサキの思惑を知ってか知らずか。放っておけば際限なく語り続けそうな勢いだったゼオルートは、それを途中で遮られたことが寂しかったようだ。丸眼鏡の奥の瞳を瞬かせながら物惜しそうに言葉を継ぐゼオルートに、いや、まあ、それはそうなんだがな……マサキは口籠らずにいられない。
 今のところ彼の口から自身の誕生日の話題が出てくることはなかったが、毎年律儀にプレシアが祝い続けていることもある。いつどこでマサキたちの企みが気取られないとも限らないのだ。
 何をプレゼントしようか。頭を悩ませながら、マサキは次いでテーブルに届けられたハンバーガーにかぶりついた。
「美味いな、これ」
「でしょう? 肉の触感を適度に残しつつ、スパイシーに仕上げているのですよ」
 店の看板メニューだけはある。噛めば噛むほどに肉の旨味が感じられるハンバーガーは、ひとつでは物足りないと感じさせるぐらいの美味さだ。
 たっぷりと詰め込まれた野菜が、肉に練り込められたスパイスを上手い具合に中和している。空きっ腹に沁みる肉の味わい。立て続けに口の中にハンバーガーを放り込んでいると、何を思ったか。不意にゼオルートが口を開いた。
「まあ、プレシアの料理には敵いませんがね」
 自身の愛娘を目に入れても痛くないといった勢いで大事にしているゼオルートは、時にマサキが閉口するような彼女への褒め言葉を、衒いなく口にしてみせる。その大半を微笑ましいと受け止められるマサキではあったが、流石にこの場面でのこの台詞にはひと言返したくもなったもの。
「こんなところで親馬鹿を発揮してるんじゃねえよ。何だよ、その対抗心は。プレシアが聞いたら怒るぞ」
「いや、はは……そういうつもりではないんですがね」
「他にどういうつもりがあるんだよ」
 マサキはハンバーガーの最後のひと口を口の中に放り込んだ。
 ゼオルートの皿のパスタはまだ半分ほど残っている。それを彼がゆっくりと片付けてゆくのを、付け合わせのポテトを食べながら待つ。
 プレゼントを何するかはまだ決まっていない。
 酒にするか? マサキは思った。親交の深い知り合いを訪ねて方々へ出かけて行くゼオルート。彼らにとって酒はコミュニケーションの手段であるらしく、その場で飲み会になることも珍しくない。誘われれば断ることのない人柄とはいえ、きっとゼオルート自身も酒好きであるのだ。ちょいちょい口実を付けては自宅で晩酌を始めるゼオルートは、ひとりで飲む酒が寂しいのか。ついでとマサキに酒を勧めてくることも多い。
 いい酒の一本や二本でも買えば、それだけでプレゼントとしての格好は付く。
 けれどもそれでいいのだろうか? マサキは頬杖を付いて指先で抓んだポテトを弄んだ。よくよく考えてみれば、人付き合いの幅が広い割には趣味らしい趣味のない男。剣聖という栄誉に与っている剣術にしても、努力を他人に見せることをしない性格だからか。好きなのは確かだろうが、どこまで本気で取り組んでいるのかわからない。
「なあ、おっさん」マサキは一向に決まらないゼオルートへのプレゼントに、ヒントを求めて口を開いた。「俺の買い物もそうだけどさ、おっさんは何か欲しいものとかないのかよ。久しぶりの街だろ」
「欲しいもの、ですか?」マサキに向けられた瞳が瞬く。
「俺の用事にばかり付き合わせちゃ悪いって思ってさ」
「そうですね……」宙に視線を彷徨わせたゼオルートが、ややあってマサキに視線を戻す。「そろそろ写真立てが古くなってきているので、いい物があったら欲しいとは思っていますが」
 マサキは合点がいった。リビングのサイドボードの上に置かれている写真立ては、長年、陽の当たるその場所に飾られ続けているからだろう。傷みが激しくなった結果、そろそろ縁が欠けそうになっていた。
 そこに収められているプレシアの母親――即ちゼオルートの妻の写真を不憫に感じていたのは、マサキだけではなかったようだ。当たり前だ。今でも時々、口にすることがある最愛の妻だ。もっと綺麗な写真立てに写真を飾り直したい。どうして彼がそう思っていないなどと思ったものか。
 高級酒と写真立て。
 悪くない。マサキは口の中で呟いた。

※ ※ ※

 大通りにある洋品店でシャツと下着を買ったマサキは、次はオーダーメイドの靴屋だと張り切るゼオルートの隙を突いて、彼からそっと距離を取ると、通りがかったばかりの小洒落た外観の雑貨店の入り口を潜った。
 自身の欠点である方向音痴もこういう時には役に立つ。ゼオルートはきっとマサキを探し回るだろうが、迷ったと云い張れば、目的が悟られることはない。いらっしゃいませ。店の奥からかけられた出迎えの挨拶に軽く頭を下げたマサキは、細々とした雑貨が所狭しと並べられた店内を、荷物をぶつけないようにしながら静かに見て回った。
 木製に真鍮製。そして銅製。ややあって見付けた目的の品。陳列棚の一角に並ぶ三種類の写真立てを眺めて、暫く悩む。
 どことなくアンティークな雰囲気を漂わせてはいるが、特に凝った意匠が施されている訳でもない。ありきたりな写真立て。果たしてどれを選ぶのがベストな選択なのか。迷いに迷ったマサキは、自分ひとりで決めるのは限界だと、奥で店番をしている若い女性を呼んだ。
「何かお目当ての商品がおありですか」
 彼女に目的を明かし、他に写真立てはないかを尋ねる。
「そういうことでしたら、これは如何でしょう」
 彼女が持ち出してきたのは、細やかなアラベスク模様が美しいニッケル製の写真立てだった。
 照明の光を受けて眩く輝く銀色の写真立ては、雑貨というより良く出来た調度品のようだ。これならゼオルートやプレシアにとって大事な写真を飾るのに相応しい。マサキは直ぐに購入を決めた。プレゼント用にラッピングしてもらった包みを、自分の荷物の中に紛れ込ませて店を出る。
 そして酒屋に向かった。
 重度の方向音痴ではあるものの、路地とははっきり賑わいが分かれた大通り。人波に沿って歩いて行くと、程なくして酒屋の看板が目に入った。迷わず店に飛び込み、とにかく高い酒を――そう店主に頼んで、勧められるがまま30年物のワインを購入する。それを写真立て同様に自分の荷物に紛れ込ませたマサキは、思った以上にすんなりと目的を達せたことに満足しながら店を出た。
 後は動かずに待っていればいいだけだ。マサキは大通りの中央で店を開いているキッチンカーに近付いた。周囲に休憩用のベンチがあることもあって、かなりの賑わいをみせている。何を売っているのかと覗き込んでみれば、どうやらソフトクリームであるようだ。
 丁度デザートが食べたいと思っていたところでもある。マサキはバニラをひとつカップで買い、空いたベンチに滑り込んだ。牛乳の味が強くするコクのあるソフトクリーム。美味い。そのまま、デザート代わりのソフトクリームを食べながら、マサキはゼオルートが自分を見付けてくれるのを待った。
「どういうことです、マサキ……」
 よもや呑気にソフトクリームを食べているとは思ってもいなかったようだ。十分ほど経った後、人波を掻き分けるようにして姿を現わしたゼオルートが、脱力しきった様子でようやく見付けたとばかりに隣に腰掛けてくる。
「ただ黙って待つのも寂しいから買ったんだよ。美味いぜ、ソフトクリーム」
「心配しましたよ。いきなり姿が見えなくなるのですから」
 余程必死になって探し回ったようだ。微かに乱れている髪。悪かったよ。立ち上がったマサキは、謝罪の言葉を口にしながら空になったカップをゴミ箱に放り込んだ。
「でも、おっさんが云った通りちゃんと待ってただろ」
「そうですね。けれど、ここはもう何度も探した筈なのですが」
「見逃したんじゃないか?」本当のことを口に出来ないマサキは惚けるしかない。「人が入れ替わり立ち代わり座りに来てたしさ」
 そう誤魔化しにかかるも、ゼオルートはマサキの言葉を鵜呑みにする気はないようだ。それだけの時間、彼とはぐれていたということでもあるのだろう。真剣な表情。ベンチに腰掛けたまま、顔を上げてっとマサキの顔を見詰めてきたゼオルートは、「実はもっと遠くまで迷ってたりしませんか、マサキ? あなたのことです。大通りを外れて住宅街まで行ってしまっていたとしても私は驚きませんよ」
「そりゃ確かに、俺は街を出ても迷ってることに気付かないぐらいの方向音痴だけどな……」
 丸眼鏡の奥の真摯な眼差しに、心の奥底まで見抜かれているような気分になる。いたたまれなくなったマサキはゼオルートから目を逸らした。
 それが増々ゼオルートの疑念を深めたようだ。
 掴まれた手。マサキの両手を引いたゼオルートは、隠し事をしている幼子を目の前にしているような口調で言葉を継いできた。
「怒らないから云ってごらんなさい。どこまで行ったんです?」
「いや、ちょっとその辺を歩いたぐらい……」
「本当ですか? その割にはあなたの姿を全く見かけなかったのですが」
「偶々擦れ違っちまったんだろ」マサキは腕を引いた。「それより、早く靴を買いに行こうぜ。俺、その後にやりたいことがあってさ……」
 マサキに促されて立ち上がったゼオルートは、やりたいこと? 怪訝そうな表情で尋ねてくる。
 そうだよ。マサキはゼオルートに笑いかけた。この街に来て出来た目的のひとつは、買い物よりもマサキの胸を弾ませてくれるものだ。早速とその袖を引いて歩き始めたマサキは、少し歩いたところで、マサキの目的の予想が付かずに考え込んでいるゼオルートを振り返った。
「射的がやりたいんだ。プレシアに土産にぬいぐるみでも取って帰ろうかと思ってさ。おっさんもやろうぜ」
 そういうことなら。家に置いてきた愛娘のことが気掛かりでもあったのだろう。安堵した様子で頷いたゼオルートに、ひとりで留守番させてるしな。マサキが続ければ、そこは気になっていたようだ。
「本当にプレシアには頭が下がりませんよ」しみじみと言葉を吐く。
 今日は西、明日は東。方々へと気軽に足を運んでゆくゼオルートは、まだ幼い愛娘をひとりにしてしまうことが多い環境に心苦しさを感じていたのだろう。あの子がいるから、安心して私は出掛けられるのですよ。ぽつりとそう洩らす。
「ところで、オーダーメイドの靴はどうですか、マサキ」
 とはいえ、それも少しのこと。まだマサキに靴を作らせることを諦めていなかったらしい。早速とばかりに口を開いてきたゼオルートに、まだ諦めてなかったのかよ。マサキは驚くも、その程度で萎れる性格でもない。しぶとくオーダーメイドの良さを喧伝してくるゼオルートに、この際それでもいいか――マサキは覚悟を決めた。
 サプライズパーティの準備をしているプレシアの為に、なるべく長くゼオルートを街に足止めしなければならないのだ。既製品をさっと買って終わりにするよりも、採寸だ何だと時間をかけた方が目的に適っている。そう考え直したマサキは、先行くゼオルートについて歩いて店を目指した。
「……ここに入るのかよ」
「大丈夫ですよ、マサキ。堂々としてなさい。冷やかしで入るのではないのですから」
 風合いの異なるレンガが積み重なった壁に、黒光りする重厚な柱。通りに面して広く取られた窓が、曇りひとつないまでに綺麗に磨き上げられている。そこから店内の様子を窺えば、壁際にずらりと並ぶ皮のロールが目に付く……シックに整えられた店構えは、大通りの他の店とは一線を画す雰囲気に満ちていて、ちょっといい程度の靴を買うつもりだったマサキとしては大いに腰が引けそうになったものだが、普段と何ら変わりのない様子でいるゼオルートのお陰で逃げ出すまでには至らない。
「おや、ゼオルートさん。お久しぶりです。今日は靴のメンテですか」
「靴を作りに来たのですよ。丈夫な靴が必要になったものですから」
 そろりそろりと店内に足を踏み入れてみれば、店主とゼオルートは顔馴染みであるらしい。息子ですよ。そう紹介されることに気恥ずかしさを感じつつも、そのお陰でマサキもすんなりと場に馴染むことが出来た。世間話に興じるふたりの会話に時に口を挟むこと暫く。昼食時にゼオルートが云っていた「靴は万事の元」という言葉は、店主からの受け売りであるらしい。話題を靴に戻したゼオルートがマサキを振り返る。
「足を支える靴が確かなものでないと、身体に不調が出るのですよ――と、云う話を先程しようと思っていたのですが、あなたに遮られてしまいましたからね、マサキ」
「だっておっさん、ついでに剣術の話をする気満々だったじゃねえかよ。久しぶりの街で堅苦しい話を聞かされるのもな。帰ったら修行だ稽古だって考えながら街にいても落ち着かないだろ」
 マサキが履いている革のブーツをチェックした店主曰く、マサキの足は「きちんと大地を掴んでいるいい足ですね」という評価であるらしい。靴が良くなればより動き易くなりますよ。片眼鏡の落ち着いた物腰の紳士然とした店主は、そう云って穏やかに微笑んだ。
 皮の種類と靴のタイプを選び、採寸。初めての経験は少しばかりマサキを緊張させたが、終わってみれば少しばかり成長できたような気分になれたのだから不思議なものだ。二足のブーツを注文オーダーしたマサキは、受け取り日を愉しみにしながら、受け取った引き換え票を財布に仕舞った。
「では、出来上がりましたらご連絡します」
 ついでと靴を一足オーダーしたゼオルートのお陰で、大分時間が稼げたようだ。ティータイムの終わりを告げる柱時計に満足しながら店を出たマサキは、店主に見送られながら大通りの雑踏の中へと再び戻って行く。
「少し人が減ってきたな」
「夕食の買い物に丁度いい時間ですからね。街の人たちは市場に向かったのでしょう」
「市場かあ。今日の夕飯は何だろうな」
「あなたの好きな肉料理だといいですね」
 会話のついでと探りを入れてみれば、ゼオルートはまだ自身の誕生日に気付いていない様子だ。なら、大丈夫だろ。マサキは大通りに並ぶ店に目をやった。通りの反対側、人波の向こうに射的場の看板が見える。
 夕暮れ間近となって大分薄くなった人波に悠々と道を往きながら、マサキはゼオルートともに射的場へと向かった。
 学校が終わって時間を持て余しているのだろう。軒下で店を覗き込む子どもたちの群れ。背後から店内の様子を窺えば、人の入りはそこそこであるようだ。
「おっさん、あのぬいぐるみなんかどうだよ。プレシアが喜びそうじゃねえか」
「私は見ているだけでいいですよ、マサキ」
「いいから一緒にやろうぜ。どっちが先にあのぬいぐるみを撃ち落とすか競争だ」
 銃は撃ち慣れないんですがねえ。と、零すゼオルートの袖を引いて射撃場に入ったマサキは、早速彼と肩を並べて射的台に陣取った。
「コルク栓で撃ち落とせる大きさではない気がしますよ」
「不可能を可能にするからこういうのは面白いんだって。ほら、行くぜ!」
 最上段に置かれている50センチほどのクマのぬいぐるみ。標的を定めたマサキは店主から受け取った弾を次々にその頭めがけて撃ち込んで行った。一回で受け取れる弾の数は三発。当てどころによって振れ幅を変えるぬいぐるみに手古摺りながらも、景品獲得を目指してふたりで交互に弾を撃ち続ける。
「的が大きいから何とか当たってはいますが、あなたのように上手い具合に土台が動きませんね」
「頭や腕を狙うんだよ、おっさん。そうやって揺さぶりをかけるんだ」
 脇目もふらずにぬいぐるみを狙い続けたこともあって、20発ほど。ついにぬいぐるみが棚の後ろに落ちた。
 最後の一発を当てたのはゼオルートだった。
 地道に弾を当てて、ぬいぐるみの位置をずらし続けたマサキの努力をふいにするような奇跡の逆転劇。手柄を横取りする形になったゼオルートはかなり焦っていたが、プレシアへの土産でもある。マサキとしては撃ち落としたのがゼオルートで良かったと思うばかりだった。
「私が貰っていいんですかねえ。当てた回数が多かったのは、あなたの方でしたよ」
「いいに決まってるだろ。そういうのも含めて射的なんだから。プレシアだって俺から貰うより、おっさんから貰った方が嬉しいだろ」
 余った弾で下段の撃ち易い位置に並んでいる菓子類を狙う。思惑通りに取れた菓子に、これもプレシアにやるかな。マサキはそう呟きながら射的場を後にする。
「随分人が減ったな」
「もう夕暮れ時ですからね。観光地でもない街はこんなものですよ」
 店仕舞いを始めている店がまばらにある中、ふと空を見上げてみれば、そろそろ中天に座す太陽も茜色に染まりつつある。
 どこからか匂ってくる夕餉の香り。プレシアはどこまで準備を進めただろうか? 彼女が作る料理の数々を脳裏に思い浮かべながら、帰るか。街で羽根を伸ばしきったマサキはゼオルートを振り返って笑ってみせた。

※ ※ ※

 館に一歩足を踏み入れるなり漂ってくる様々な料理の匂い。どうやら支度を終えているようだ。お帰りなさい! リビングから姿を現わしたプレシアが、マサキとゼオルートの許へと駆け寄って来る。
「おとうさん、こっち!」
 射的で取ったクマのぬいぐるみを渡す間もなく、腕を引かれたゼオルートがダイニングへと向かってゆく。プレシアとしては自身の今日の努力の成果を一刻も早く見せたかったのだろう。続いてマサキがダイニングに足を踏み入れれば、テーブルの上には山と料理が用意されている。
 バースディケーキにローストチキン、生魚のカルパッチョ、ハムとチーズの盛り合わせ……これは、と目を丸くするゼオルートに、「お誕生日おめでとう、おとうさん!」プレシアが満面の笑みで声を上げた。事情が良く飲み込めないといった様子でマサキを振り返ったゼオルートに、大したもんじゃねえけど。と、マサキは荷物の中からラッピングされたワインと写真立てを取り出した。
「様子がおかしいとは思ってたんですよ」プレゼントを受け取ったゼオルートが、その包みを開きながら云った。「日頃不愛想なあなたにしては随分と積極的に私を誘ってくれると」
 30年物のワインに、ニッケル製の写真立て。しげしげとマサキからのプレゼントを眺めたゼオルートは、マサキを探し回った時間のことを思い出したのだろう。通りで口を割らない筈です。苦笑しきりで言葉を継ぐと、「でも、嬉しいですよ。有難う、マサキ。写真は大事に飾らせてもらいますよ。それにプレシアも、こんなに沢山の料理を用意してくれて」
「大変だったんだよ、おとうさん。いつ帰って来るかわからないから」
「いやあ、心配をかけたというか、気を遣わせてしまったというか……」
「今日の主役はおっさん、あんただろ。気にするなって」
 プレシアに腕を引かれながらテーブルに着いたゼオルートに、マサキもまた荷物を床に置いて自身の席へと着いた。父親にサプライズパーティを仕掛けるという目的を達せたことが嬉しくて堪らないのだろう。盛大に頬を緩ませたプレシアが、ゼオルートのグラスに用意していた酒を注ぐ。
「おにいちゃんも付き合うよね?」
 続けて目の前のグラスに注がれた酒に、まあいいか。マサキは小さく頷いた。
 温かくマサキを受け入れてくれた大事な家族が、喜びに満ちた表情をしている。だったら今日ぐらいは気兼ねなく飲むことにしよう。グラスを取り上げたマサキは、かんぱーい! と、声高らかに音頭を取ったプレシアに、腕をゆっくりと前に差し出していった。

リクエスト「一日だけゼオルートに甘えるマサキ」