寒々としたコンクリートジャングルの狭間で、幾つもの薄暗い影に囲まれていた。
月のない夜。音もなく忍び寄った闇が、マサキと彼らを包み込んだ。お前がいるから……お前がいるから……不気味に響き渡る声。ゆらりと震えた影が空に向かって伸びた。疫病神……穀潰し……役立たず……彼らは輪の中心にいるマサキに対して、繰り返し、繰り返し、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけてくる。
マサキは足元に広がっている自身の影を見詰めた。
黙っていれば嵐はいずれ去る。それはマサキが短い自分の人生で得てしまった経験則だった。地上で生きていた頃のマサキは力なき卑小な存在だった。だからこそ、過酷な運命に飲み込まれてしまったマサキは、他人の悪意を遣り過ごすことを覚えてしまった。お前が……お前が……お前が……輪唱となってマサキを襲う呪詛。空に向かって伸びていた彼らの影がマサキに向かって降りてきたかと思うと、まるで蛇のように全身に絡み付いた。
――お前が殺したんだ!
瞬間、マサキはベッドの上で目を開いていた。まだ夜が明ける前。暗がりの中で胸を上下させながら、喉の奥に溜まっていた息をぜいぜいと吐く。
いつの間にか呼吸が止まっていたようだ。
過去を想起させる夢を見た後はいつもこうだ。面白くねえ。マサキはそう思うも、遣り場のない感情の持って行き先がない。畜生。スプリングの効いたベッドのマットレスを力任せに叩くも、拳に伝わってくるのは手応えのない柔さだけだった。
※ ※ ※
「おや、マサキ。今日は遅いですね。プレシアはもう家を出ましたよ」
まんじりとしない夜を過ごしたからだった。明け方近くになって襲ってきた睡魔に抗えなくなったマサキが次に目を覚ますと、太陽が煌々と世界を照らし出していた。
時刻は昼近く。プレシアがダイニングテーブルに残して行った朝食を、食欲の湧かなさからどう扱うべきが悩んでいると、リビングから顔を覗かせたゼオルートが声をかけてきた。
「待ってはいたのですが、中々起きてくる気配がなかったので……」
凝っとプレシアが作った料理を眺めていると、どうやらマサキの心境を勝手に推し量ったようだ。ひとり残された朝食になったことに不満を感じている――と、思い込んだらしい。どこか申し訳なさそうに言葉を継いだゼオルートに、そういうんじゃねえよ。マサキはそっぽを向いた。
そのままキッチンに向かう。
「機嫌が良くなさそうですね」
背中に迫ってくるゼオルートの声を聞きながら、冷蔵庫の中から水入りタンブラーを取り出す。
コップに注いだ水を半分だけ飲み干したマサキは大きく息を吐いた。喉を通り抜ける冷えた感触が、まだ半分眠りの中にある脳を覚まさせる。けれどもやけにざわめいている心。鎮まることを知らない荒ぶった感情が、別に。ぶっきらぼうに言葉を吐かせる。
「もっと肩の力を抜きましょう。別に今日明日で世界が滅ぶ訳ではないのですから」
「だからそういうんじゃないって云ってる――」
そう答えながら振り返れば、ダイニングキッチンの手前まで入り込んできているゼオルートの姿がある。
丸眼鏡の奥で瞬く眼。何かを考えている時のゼオルートの癖に、マサキの脳裏を良くない予感が過ぎった。前回はいつだっただろう。同じように機嫌を損ねていたマサキを連れて、ゼオルートがピクニックへと出かけて行ったのは。
プレシアに作らせたサンドイッチを昼食に、何をするでもなく。ただただ男ふたりでラングランの雄大な自然を眺め続けた。時折、思い出したように他愛ない話をするゼオルートに、何しに来たんだよ、ここに。マサキが尋ねれば、「雄大な自然に囲まれていると、自分という存在がどれだけ大きなものであるか感じ取れるでしょう」ゼオルートは静かに微笑みながら、穏やかな口ぶりでそう答えてみせた。
――逆じゃねえのかよ。ちっぽけな存在だろ、人間って。
さやさやと肌を撫で付けるような風が吹いていた日だった。
――そのちっぽけな人間が、この雄大な自然の中で生きていけるのは何故だと思います?
――さあな。それこそ自然の為すことってことじゃねえの。世界ってのはそういうもんだろ。あるがままに出来てる。
特別なことなどなにもないピクニック。マサキはラングランの風を感じ、咽るような草の匂いを嗅ぎ、強く降り注ぐ太陽の光を全身に受けていただけだった。
――人間というのは脆弱な生き物ですよ、マサキ。そのままでは弱肉強食の世界を生き抜けないような……それだのに、何故でしょうね。私たちはこの雄大な自然さえも自分たちの意のままに扱おうとしている。
ゼオルートの言葉は時に酷く抽象的で、時に酷く観念的だ。端的に云えばどうでもいい話も多い。けれども彼の言葉は聞いているだけで、マサキの胸の奥で疼いている暴力的な何かを鎮めてくれる。
――何だか人間が悪いみたいな口を利くな、あんた。
――善い悪いといった問題ではないのですよ。それもまた自然の為したことなのですから。
――それなのに人間が大きな存在だって?
――そうですよ。自然の為したこと。この世界が人間を生み出したからこそ、人間は、自然を制御しようとするまでに大きな存在となれたのです……そうは思いませんか、マサキ?
――俺にはわからねえ。でも、あんたの話のお陰で気持ちが落ち着いたよ。
いつでも穏やかに振る舞うゼオルートの柳に風な態度が、正直、マサキは好きではなかった。自分はそこいらの子どもとは違う。だのにいつでも飄々と、ゼオルートはマサキをいなしてみせた。それだけではない。どれだけマサキが苛立ちまぎれに激しい言葉をぶつけようとも、表情を変えることなく受け流してみせた。それは、自分の存在に誇りと自負を抱いているマサキからすれば、自身が子どものように扱われているのと同じことだった。
ちっぽけな自尊心が他人に軽くいなされるのを良しとしない。
けれどもゼオルートの言葉には、マサキが抗えないぐらいに魔力的な何かがある。
通り一遍で物を語ることをしないゼオルートは、声を荒らげることをしない。彼は静かに闘志を滾らせ、そしてそれを力として戦場を切り抜けるタイプの戦士だ。だからだろうか。聞いているだけで心が鎮まる声の階調。口惜しさと、憧憬。百年経っても敵う気がしない巨大な背中を、マサキは追いかけ続けている。
けれども、今は――。
マサキは首を振った。自分の部屋から出てくるのが早かったのだ。せめてもう少し気分が落ち着くのを待ってから出てくるべきだった。そうは思うも後の祭り。ゆっくりとマサキに近付いてきたゼオルートがその腕を取る。行きましょう、マサキ。にこにこと人懐っこい笑みを浮かべながら、ゼオルートが云った。
「何処に行くんだよ。俺、飯もまだだってのに」
行かないで済む理由を頭の中で探すも、上手い言葉は見付からなかった。
「釣りですよ」ゼオルートの手がマサキの腕を引く。「今日はのんびり魚釣りといきましょう、マサキ」
※ ※ ※
持って出たのは釣り道具だけだった。
家の裏手にある森の中を、魔装機にも乗らず、食事も持たず、歩くこと1時間ほど。木々の合間から差し込む陽射しが柔らかく降り注ぐうららかな陽気の中、清流と呼ぶに相応しい透明なきらめきを湛えた小さな川に行き当たったゼオルートが、早速と河原に居場所を定める。
「ほら、マサキ。あそこに魚が溜まっていますよ。これは釣果が期待出来そうですね」
岩場の影を指差して微笑むゼオルートに、視線を川へと向けてみれば、確かに数匹の魚が身体を休めるように岩場の影に溜まっている。釣れるといいんだけどな。マサキは肩に下げていた釣り道具を河原に置いた。
「大丈夫ですよ。糸を垂らしていれば、いつかは釣れます」
「その台詞が不安なんだよ、おっさん。もっとこう、テクニック的なこととかさ、心構えとかさ、他に云うことあるだろ」
釣りをしたことはあるが、まともな魚を釣ったことは数えるほど。食事を持たずに家を出たということは、釣果を食事とするつもりでいるのだろう。そろそろ空腹を感じ始めているマサキとしては、大して腹を満たせずに帰路に就くのは避けたかった。
道中では大した話をしなかった。
既に姿のなかったプレシアが何処に行ったのか……他の魔装機操者たちが何をしているのか……季節によって香りを変えるラングランの風が清涼とした森の匂いを伝えてくる中、マサキはゼオルートと並んで歩きながら、彼の止め処ない話を聞き続けた。
「しかし、マサキ。先ずは糸を思ったところに垂らせないことには始まりませんよ」
「まるで俺が釣りひとつ出来ないみたいに云うじゃないか」
鬱屈とした感情は未だにマサキの心の中で燻ぶり続けている。
たかが悪夢、されど悪夢とはいえ、馬鹿には出来ないものだ。夢ひとつに振り回されている自分が馬鹿らしくて仕方がないのに、自分で自分の気持ちを鎮めることが出来ない。苛立ち紛れに言葉を吐けば、出来るんですか? 真面目な顔付きでゼオルートが尋ねてくる。やったことはある。マサキは答えて釣り道具が収まったバッグを開いた。
「そういうおっさんはどうなんだよ。出来るのかよ、釣り」
「糸を垂らすぐらいなら出来ますよ。まあ、見ていてください。今日の晩御飯は豪華に魚料理と行きましょう」
「本当かねえ」
ゼオルートと話をしながら釣竿を組み立て終えたマサキは、早速とそれを幾度か振ってみた。少々硬く感じられはするものの、ゼオルートもそこまで道具に拘るほど釣りに造詣がある訳ではないのだろう。
まあ、こんなもんだよな。マサキは呟いた。
マサキ自身も釣りの玄人という訳ではない。これでいいだろうと早速餌を付けた釣竿を投げる。ぽちゃん。狙い通りに川の中心付近に沈んだ釣り針に、ほらな。と、マサキはゼオルートを振り返った。
「なら、ふたりでいっぱい魚を釣り上げることにしましょう。先ずは今日の昼食の分ですね」
「やっぱ魚料理なのな。昼も夜も魚ってなると暫く魚はいいってなりそうだ」
隣で釣竿を振ったゼオルートが、プレシアは料理上手ですからね。どこか得意げに言葉を吐く。泰然自若とした剣聖の唯一の泣きどころ。愛娘のこととなると表情が変わるのは何処の世界の父親も同じであるようだ。
「少しは可愛い娘の負担を軽くしてやろうとは思わないのかね、このおっさんは」
「はは……それは……その、私にもやらなければならないことが多くて……」
その可愛い愛娘であるプレシアに家事を任せきりにしているゼオルートに、マサキは嫌味混じりに言葉を吐いた。ゼオルートもその点には自覚があったようだ。気まずそうに笑ってみせると、歯切れ悪く言葉を継ぐ。
「それに、その……手伝おうにも、プレシアに怒られるのですよ。余計なことをしないで、と」
「おっさん、そういうの本当に苦手そうだものな」
「幾ら私でも、庭に水を遣るくらいは出来るんですがねえ」
国の剣術指南役の栄誉に与っているゼオルートの許には、日々様々な人間が訪れる。魔装機操者は云うに及ばず、王宮騎士団の面々に歴戦の戦士たち……それはそれだけの数の人々に、ゼオルートが剣技を授けた証でもあった。
彼らをもてなすのは、いつだってプレシアの役目だ。
お茶だ世間話だとかいがいしく立ち回ってみせる彼女は、自分より遥かに年嵩の客人にも動じることがない。まるで女主人といった風格すら漂わせているプレシアに、誰に似たんだか。マサキが呟けば、妻ですよ。ゼオルートは懐かしそうな眼差しで言葉を継いだ。
「家のことは任せてと笑う女でしたよ。いつも家の中を忙しそうに動き回っていましたっけね。そうした妻の姿をプレシアは覚えているのでしょう」
「そっか。それじゃあ仕方ねえな」マサキは釣り竿を引いた。
手応えを感じた筈の釣り針には、けれどももう餌は付いていなかった。はあ。先行き不安な始まりに、マサキが大袈裟に溜息を吐いてみせれば、ゼオルートは眼鏡の奥の瞳を柔和に細めてみせた。
「大丈夫ですよ。まだ釣りは始まったばかり。最終的に釣果があればいいのですよ」
「こうしたことが続けば釣果もへったくれもないだろ」
再び釣り針に餌を付けて竿を投げたマサキに、「何事も順風満帆とはいかないのが世の常ですよ、ほら」どうやら魚がかかったようだ。ゼオルートが釣竿を上げた。小さな川魚。手のひらに乗るサイズしかない小魚に、ゼオルートは残念そうな様子をみせる。
けれども餌を取られただけで終わったマサキに比べれば、遥かに立派な釣果だ。
くそ。マサキは糸を巻きながら竿をゆっくりと左右に振った。魚が餌を突いている感触はある。後は上手く餌を食わせて釣り上げるだけだ。
「絶対に大物を釣ってやる」
「おや。やる気ですね、マサキ」
「腹が減ってるんだよ」巻き上げた糸をまた川に放る。「さっさと大物を釣って、昼飯だ」
その言葉に呼応するようにマサキの腹が鳴った。プレシアが作った料理を見た時には浮かびもしなかった生理現象の表れに、少しは気持ちも落ち着いたのだろうか? マサキはそう思うも、生々しい夢の感触が取り去られた訳ではない。
耳を貫いた罵倒の数々。それはどれも嫌になるほど聞いた言葉ばかりだった。
それでも相手にされている内はまだいいのだ。マサキは沈む気持ちを奮い立たせた。そして川面を見詰めた。木漏れ日を受けてきらきらと輝く川面は、マサキのささくれだった気持ちを和らげてくれる。
ゼオルートは人間を大きな存在だと云うが、マサキからすれば、自然の中に置かれた自分という存在はやはり小さなものだ。魔装機という力を得ても、その脅威に逆らうことなど出来ない。雨が降ればそれを遣り過ごせる場所を探し、雪が降れば暖を取ろうと必死になる。吹き荒ぶ風に立っていることもままならければ、照り付ける太陽に体力を消耗させられることもある。自然の起こす環境の変化、その過酷さを思えばこそ、自身の悩みなどささやかに感じられたものだ。
「なあ、おっさん。前にさ、人間は大きな存在だって云ったろ」
「云いましたね。それがどうかしましたか?」
「俺、それはやっぱり逆なんじゃないかって思ってさ――」
云った先からウキが怪しい動きをみせた。ぴくぴくと震えては川に沈むウキにマサキは様子を見守った。川の流れに泳がされているのとは異なる動き。一度、二度、三度……と、浮かんでは沈むを繰り返していたウキが、ついに川の中へと勢い良く沈んだ。
今だ! マサキは釣竿を引いた。
ずしりとした重みが腕にかかり、釣り竿が強く引かれる。長く伸びた糸を巻き取ろうにも、引っ張られる力のあまりの強さに現状維持が精一杯だ。
どうやらかなりの大物のようだ。それに気付いたのだろう。マサキ、そのままで。自身の釣竿を河原に置いたゼオルートが、背後から手を回してきたかと思うと、マサキが握っている釣竿を手の甲ごと掴んできた。「先ずは魚を消耗させましょう。暫くの辛抱ですよ」
右に左に、激しく流れていく糸に竿を合わせて動かしてゆく。僅かにでも力を抜けば、糸ごと竿を持って行かれかねない。マサキは両脚を踏ん張った。どれだけ大きな魚がかかったのかはわからないが、これまでの釣りでは経験したことのない手強さを感じる。絶対に釣り上げてやる。マサキは両手に力を込めた。
それは実際には数分の出来事だった。
けれどもマサキにとっては数十分にも思える長い時間だった。ようやく弱まりをみせ始めたウキの動きに、ゼオルートが糸をゆっくり巻き取るように告げてきた。
マサキは彼の言葉に従って慎重に糸を巻き取っていった。時折、かかった魚が激しく暴れ回る感触があったものの、次第に近くなる魚影に、その力が弱まっていることが窺い知れる。
ゆっくりと糸を巻き取ること暫く。両手で抱えきれるか怪しいまでに巨大な魚がその姿を川面に露わとした。これは凄い。マサキから手を離したゼオルートが網を手に魚へと近付いて行く。大手柄ですよ、マサキ。ややあって網に収まった巨大な魚に、マサキは肩で大きく息を吐くと、痺れを訴え始めていた手を釣り竿から離した。
「食べきれるかわからないぐらいの大きさですね」
「これなら昼食にしてもいいだろ。焼こうぜ、おっさん」
「その前に支度をしないと」
「支度?」聞き返したマサキに、ゼオルートがなるべく大きな葉を拾ってくるように告げた。「この大きさだと焼きムラが出来ますからね」
「確かに中まで満遍なく火を通すのは難しそうだ。その頃には皮が焦げちまう」
そうでしょう。マサキの言葉に頷いたゼオルートが、魚籠からはみ出している魚を眺めて笑った。
「私は木の実を拾ってきますよ。燻して食べましょう」
ゼオルートの言葉に頷いて、彼が森の中へと姿を消すのを見届けたマサキは、自身もまた巨大な葉っぱを求めて辺りを探し歩いた。
ラ・ギアス世界の植物には、思いもよらない進化を遂げたものも多い。さして歩かずに、頑丈で巨大な葉が茎から枝分かれして層になっている植物が点在する地帯に出たマサキは、ナイフを持って来るんだったと後悔しつつも、魚を包むのに丁度良さそうな大きさの葉を力任せにむしった。
微かに浮かれている心。いつの間にか、あの巨大魚を食べるのを愉しみにしている自分がいる。追加でもう何枚か葉をむしったマサキは、それを両手に抱えて河原へと戻った。盛大に迷うのではないかと内心不安があったが、川の流れる音がしてくる方向を聞き間違えるほどではなかったようだ。程なくして出た川辺に安心して左右を見渡す。
左手側、少し離れた場所に釣りの痕跡が残っている。わかり易い目印があれば迷わずに済むようだ。マサキはほっと息を吐いて、先程まで釣りをしていた場所へと戻った。
「ああ、先に戻って来ていたのですね」
ゼオルートが戻って来たのは、そこから二十分ほど経過してからだった。どうやら彼は方向音痴のマサキを心配して、少し遠回りをしてここに戻って来たらしい。迂闊にこの場を動かなかったのは正しい選択だった。マサキはゼオルートとともに昼食の準備に取りかかった。
巨大な葉で木の実をまぶした魚を包み、その上から更にアルミホイルで巻く。川魚の臭みがこれで取れるらしい。マサキはゼオルートとともに魚を調理する為の準備を進めていった。河原の石で竈を作り、そこで起こした火にホイル巻きとなった魚をくべる。付近で掻き集めた小枝で定期的に火を焚き上げながら、片手間に小魚を釣ること二十分ほど。そろそろいいだろうというゼオルートの言葉に従って、アルミホイルを火から取り出す。
粗熱が取れるのを待ってアルミホイルを開けば、焼けた木の実のかぐわしい香りが漂ってきた。
そろそろ背中に付きそうな塩梅の腹がしきりと鳴き声を上げている。マサキは早速魚に箸を入れてみた。立ち上る湯気の向こう側に、食べ甲斐のありそうな白身が覗いている。先ずはそのままでと調味料を使わずに食べてみれば、さっぱりとした味が口の中に広がる。
脂っぽさはそこまでではないらしい。
さりとてぱさついているのとも違う。マサキは次いで塩をかけて食べてみることにした。美味い。さっぱりとした味が塩で引き締められた感がある。米が欲しくなるな。そう呟くと、あなたはいつもそうですね。ゼオルートが笑った。
「あなたにかかっては、何でもご飯のおともですね、マサキ」
「日本人だからな」マサキは立て続けに箸を口に運んだ。「でも、これだけでも充分に美味いぜ」
脂っこさがないからか。空腹も手伝ってするすると口の中に溶けてゆく魚の身だったが、元が巨大な魚であるからか。食べても食べても減る気配がない。男ふたりで黙々と食べ続けること、暫く。そろそろ腹がくちたらしい。四分の三ほど残った魚を目の前にしてゼオルートが云った。
「流石にこれを全部食べきるのは難しそうですね。残った分は持ち帰って、プレシアにアレンジしてもらいましょう」
「それならもうこれで充分じゃないか? これ以上、魚を釣ってもな。逆に駄目にしちまうだろ」
「大物はこれで充分ですが、小魚も少しは欲しいところですね。お酒を飲むのに幾つか作って欲しい料理がありますし」
「おっさん、本当に酒が好きだよな」マサキは釣り竿を手に取った。「ならもう少しだけだぞ」
「そうこなくては」
続いて釣竿を手にしたゼオルートとともに川辺に陣取ったマサキは、再び糸を川に垂らした。
メインとなる魚を釣り上げた充実感と安心感からか。目覚めにあった胸を包み込むような息苦しさも大分和らいだ。投げかけられた言葉の数々を思うと胸は痛むが、気分が沈むといったことももうない。マサキはゼオルートを窺った。飄々と振舞っているように見えて、その実、計算高い剣技の師匠……釣りにマサキを連れ出したのも、ただ気遣ってみせるだけでは、マサキの反発を招きかねないと彼が気付いているからに違いなかった。
ゼオルートは伊達や酔狂でマサキの養父となった訳ではないのだ。
そのさりげない心遣いに触れる度、マサキは養父の器の広さと懐の深さを感じ入られずにいられない。常に自らの前をゆく剣聖ゼオルート。剣技の道とはただその技能に優れているだけは足りないのだと、彼は彼の生き様で以て語っているように映る。
あのさ。マサキは口を開いた。ゼオルートは起き抜けのマサキの様子がおかしいことに気付いている。それでありながら何を聞くこともせず、こうして釣りに連れ出すに留めてくれた。それは彼がマサキに必要なのは手を差し伸べることではなく、気分転換だと思っているからに他ならない。
自立心が強く、依存心の薄いマサキと、常に一定の距離感を保ってくれるゼオルート。彼は養父だからといってマサキに何かを押し付けることをしない。それに対する礼は述べるべきだろう。マサキは緊張感を鎮める為に息を大きく吸った。
「ありがとな、おっさん……」
「私は何もしていませんよ」
いつもゼオルートはそうだ。マサキが自分で立ち直るのを待っていてくれる。そしてマサキの感謝の言葉を、自分は何もしていないと受け流す。それが彼の背中を、マサキにより大きく感じさせているのだとは思わずに。
「そう思うなら、思えよ。俺が云いたかっただけなんだからさ」
「あなたは私の大事な家族ですよ、マサキ」ゼオルートが竿を上げた先には小魚がいる。「家族に対して何かをしたとしても、それは当然のことをしたまでなのですから、そんな風に改めて云うことはありませんよ」
徐々に調子を上げて魚を定期的に釣り上げるようになったゼオルートに対して、大物を釣り上げたマサキの釣り竿にはそれがまるでまぐれであったかのように魚がかからない。けれどももうマサキは、それで心を腐らせるような精神状態ではなくなっていた。
心強い養父ゼオルート、彼が傍にいる。そう思うだけでマサキの心は充分に慰められるのだ。
「やっぱ凄いな、あんた」
「何がです」
「そんな言葉、俺はまだ云えねえよ」マサキは笑って、手応えのない竿を川から上げた。
餌ばかりを取られている状態が続いていたが、それもまた釣りの醍醐味。また餌を付けて竿を投げたマサキは、揺れる川面を見詰めながら、このまま時間が緩やかに過ぎて行けばいいのに――そう思わずにいられなかった。
※ ※ ※
残った巨大魚は様々な料理に化けた。炒め物や煮物、酢の物に使われたり、揚げ物となったり、混ぜご飯の具材として利用されたり……どれもひとつの魚から作られたとは思えない料理ばかりで、気付けばマサキは自分の分と出された小皿を全て平らげていた。
ゼオルートが釣った小魚は、彼たっての願いでアヒージョになった。酒の肴にしたかったようだ。他の料理と併せてボトルワインを一本空けた彼は、傍目にもわかるほど上機嫌でプレシアの料理の腕を褒めそやした。
そんな言葉には騙されないからね、お父さん。そう云いながらも満更な様子ではないプレシアは、その食事の席で今日の出来事を愉し気にゼオルートとマサキに語って聞かせてきた。彼女は友人たちと近場の街に来ていた移動遊園地で遊んできたらしい。今度は三人で行こうよ、ねえおにいちゃん。云われたマサキは、自分には不釣り合いな場所だと思いつつも、義妹の期待に満ちた眼差しに頷かずにいられなかった。
「ふあぁあ。あたし、先に寝るからね。おとうさんにおにいちゃん、あんまり遅くまで起きてちゃ駄目だよ」
まだまだ上機嫌で酒を空けているゼオルートに釘を刺して、プレシアが一足先に自分の部屋へと上がってゆく。
とうに料理は底を尽いていた。それでもゼオルートは酒を飲むのを止めようとしない。
「ほら、マサキ。もう一杯如何です」
「流石にこれ以上は悪酔いするぞ」
「このボトルを空けてしまいたいのですよ。中途半端に残してしまうと、味が落ちますからね」
「じゃあ、この一杯だけな」マサキはコップに注がれたワインに口を付けた。
甘味の強いワインはジュースのように飲めてしまいそうなまでに、アルコール分を感じさせない。その飲み易さに騙されると酷い目に合うのだ。これまで何度もゼオルートに酔い潰されているマサキは、ゆっくりとワインを飲み進めていった。
マサキとしては、プレシアが寝室に上がった時点で、自分もまた部屋に戻りたくあった。
昼頃から夕刻まで魚のかからない釣りを続けてしまった。立ちっ放しで疲労の溜まった脚に、ずうっと竿を掴み続けた腕。どちらもすっかりむくんでしまっている。さっさとベッドに入って身体を休めたい……それを阻んだのは、反射的に脳裏に蘇った悪夢だった。
とうにマサキの心は落ち着きをみせていたが、それは誰かがいる時間に身を置いているからであった。ゼオルートとともに釣りに興じた日中に、プレシアを加えて過ごした家族団欒の夜。穏やかに過ぎた今日という日を振り返って、これから訪れる夜更けを思ったマサキは憂鬱な気分にならずにいられなかった。
よもや二日連続で碌でもない夢を見るとも思えなかったが、だからといって意識した夢が見られる訳でもない。ちびりちびりとワインを飲みながら、ぽつりぽつりとゼオルートと会話を交わす。寝たくない。たかが夢に怯えている自分を馬鹿らしいと感じながらも、身体は正直だ。微かに震える脚。マサキは夢を見るのを恐れている。
「いやあ、今日も愉しい一日でしたね」
やがてボトルを空けきったゼオルートが、テーブルの上に残っていた食器をキッチンへと片付けてゆく。マサキは空いたグラスに水を一杯汲んだ。寝たくなくとも寝なければ。魔装機操者の日常はいつだって突然に壊されるものだ。それに備えておくのも、また操者の務め。マサキは空いたグラスをシンクに沈めて、ゼオルートとともに二階へ上がった。
「明日はピクニックにでも行きましょうか、マサキ」
右と左。それぞれの部屋に続く扉に立つ。ああ、そうだな。ドアノブを掴んだ手のひらに伝わってくる金属のひやりとした感触が、マサキの心臓を貫いた。
「あのよ、おっさん」
「どうしましたか、マサキ?」
マサキはゼオルートに顔を向けた。赤ら顔。少し離れていてもアルコールの匂いが漂ってくる。
ゼオルートの酒は酔えば酔った分だけ陽気になる酒だ。相好を崩してマサキを見詰めているゼオルートの表情は、マサキの乱れた胸の内になど微塵も気付いていないように映る。どうしよう。マサキは次の言葉を口にするのを躊躇った。
口唇を結んで言葉を飲み込み、首を振る。
彼は確かにマサキの養父ではあるが、プレシアの実父でもあるのだ。あまり自分に構わせてはいけない。何でもない。そう口にしようとしたマサキの僅かな沈黙に、ゼオルートの丸眼鏡の奥の瞳が瞬く。
「大丈夫ですよ、マサキ。云いたいことはちゃんと云いましょう」
「でも」マサキは口籠った。
「私はあなたの父親ですよ、マサキ」
ふわりと頭の上に置かれた手に、涙腺が緩んだ。酔いが自分の心を弱くしてしまっているのだ。マサキはそう思い直したが、だからといってその程度の気安めで和らぐ心細さでもない。
俺が寝付くまででいいんだ。マサキはゼオルートの顔を見上げた。ええ。頷いた彼は、赤ら顔のまま。いつも通りに穏やかに微笑んでいる。マサキは彼が着ている衣装に手を伸ばした。
「傍にいてくれないか」上着の裾を掴んで云う。
はい。と、静かに頷いたゼオルートがマサキの手を取った。大丈夫ですよ。繰り返し云い聞かせてくるゼオルートに、マサキは幾度も首を縦に振った。これでもう、あの恐ろしい夢に惑わされることはない。ゼオルートを頼ったマサキは、頼もしい父親の確かな返事を得て、ようやく心からの安堵を得たのだった。
リクエスト「一日だけゼオルートに甘えるマサキ」