Crimson Lips

 まるで朝食が終わる頃合を見計らったようにゼオルートの館に姿を現したヤンロンに誘われて、グランヴェールとの模擬戦に挑んだマサキは、昼過ぎになってようやく終わった長い戦いに休息を求めてサイバスターを降り、既にグランヴェールが去って久しい平原に身体を横たえた。
 魔装機神同士の模擬戦とあっては、他の正魔装機に稽古を付けるのとは具合が異なる。ましてや相手は圧倒的火力を誇るグランヴェールだ。幾ら精霊の力で衝撃が緩和されるといっても、物には限度がある。積み重ったダメージは相当なもので、マサキの身体のそこかしこに痣や擦過傷が刻み付けられていた。
 せせこましい操縦席でダメージに堪え続けた身体は軋み、悲鳴を上げている。
 それを「鍛え方が悪いな」と一笑に付したヤンロンは、グランヴェールを駆って颯爽と。マサキの目の前から姿を消した。
 向かった方角からして、恐らく今度はグラフドローンを使った自主的な鍛錬に励むつもりなのだろう。よくもまあ、来る日も来る日も鍛錬だ修行だのと続けて飽きないものだ……日課のトレーニングを怠ることはないものの、ヤンロンほどストイックに魔装機神操者であることに向き合えないマサキとしては、彼の勤勉さに呆れ果てる他ない。
「あら、珍しいところで顔を合わせるわね、ボーヤ」
 そこに姿を現したのがなめかましいボディラインのウィーゾル改。紅蓮のサフィーネの二つ名に相応しいシンボリックな赤い機体から降り立ったサフィーネは、平原に横たわるマサキの隣に珍しくも腰を下ろしてきた。
「ヤンロンだったら西に向かったぜ」
 何がそんなに気安くさせるのかはわからなかったが、女であることを最大の武器にして憚らないサフィーネは、正魔装機操者きっての堅物であるヤンロンをいたく気に入っているようだ。口の堅いヤンロンは滅多なことではその内容を口にすることはなかったが、いつだったか口を滑らせた時の話からするに、修行先だの鍛錬先だのにふらりと姿を現しては、他愛もない話をして去って行くのだという。
 サフィーネがわざわざウィーゾル改から降りてきた理由は、あの堅物絡みであるに違いない。事情を知っているマサキは、だからこそそう口にしてみたものの、今日のサフィーネの目的はそれではなかったようだ。
「あのねえ、ボーヤ。あたしだって、いつもいつもあの男の修行だの鍛錬だのの邪魔をして歩いてるワケじゃないわよ。今日は他にちょっと用事があってね、その帰りなのよ。まあ、情報収集ってトコね」
「お前の情報収集ねえ。どうぜロクでもねえことなんだろ」
「さあ、どうかしら。それにしても酷い有様ね。こんなに傷付いちゃって。風の魔装機神の操者にしてはらしくないわねえ。何があったのかしら?」
「ヤンロンと模擬戦をやったら中々終わりにしてくれなかったんだよ。四時間もやってりゃこんな有様にもなるだろ。実戦でだってそんなに長く戦うもんか。お陰でこの有様だ」
 身体を起こしたマサキは袖を捲った。腕の外側。操縦席の肘当てで擦った部位には、ところどころに紅斑が散った巨大な青痣が広がっている。
「操縦席で踏ん張りすぎるとそうなるのよ。もう少し力を抜くことを覚えなさいな」
 見栄えの悪いマサキの肌を目の当たりにしたサフィーネは、驚きもせず、うふふと妖艶な笑みを浮かべてみせた。
「お前にそんなことを云われるなんてな」
 はあ、と溜息を洩らしたマサキは膝に肘を付いた。
 疲労困憊とはまさにこのこと。座っているのですらだるく感じるマサキは、僅かに気が緩んだだけでも姿勢が崩れそうになったものだが、一筋縄ではいかない女狐が隣にいる状態だ。そうそう気を抜いた姿を見せる訳にもいかないと、全身で大地に踏ん張り続ける。
「テリウスやモニカはどうしてるんだよ」
「嫌な聞き方をするのね、ボーヤ。シュウ様のことは聞かないなんて。そんなことは聞かなくとも、知り尽くしているって感じかしら?」
「お前らは本当に隙さえありゃそっちに話を持っていくのな。単純に見かけねえから聞いてみただけだって云うのに。それに、どうせお前ら全員、あいつの云うことを聞いて動いてやがるんだろ。だったらあいつのことは聞くだけ時間の無駄ってな」
 ふわり、とサフィーネの上半身が動く。揺れる髪。マサキの顔を覗き込むようにして、サフィーネが間近に顔を寄せてくる。
 夜に咲く花を想起させるような甘ったるい香り。だのにどこか清涼感がある……ぷんと薫り立ったサフィーネの香水の匂いにマサキが怯んだ次の瞬間、赤い口唇がマサキの口唇に重なった。
「な……っ!」
 咄嗟にマサキは身体を後ろに退いた。
「何を考えてやがるんだよ、お前は……っ」
 纏わり付くような妖香。口唇に感じるねっとりとした感触に、手の甲で口元を拭いながらサフィーネを睨み付けたマサキは、続く言葉をどう吐くべきか悩んだ。
 口付けの理由を尋ねてもいいのだろうか。
 詳細までは知らないものの、外見からして奔放な彼女は、かなり派手な男関係を持っていると聞く。そういった彼女に理由を尋ねるなど、愚の骨頂。寸でのところで思いとどまったマサキは、むっつりと口を結んだ。
 どうせ、したくなったからした、ぐらいの理由であるのだろう。
 そうでなくとも掴みどころのない性格をしている女のことだ。まともに聞いたところではぐらかされるに違いない。訊ねるだけ馬鹿をみるのも癪だと、マサキは手の甲に付いた口紅を草むらに擦り付けた。
「男と見りゃ見境のない性格をしやがって。お前の貞操観念は緩すぎだろ」
「間接キス」
 にっこりと微笑んでみせたサフィーネの表情は、世の男の大半を虜にするだろうほどに蠱惑的だ。鼻歌交じりに立ち上がった彼女に、間接キス……? 少し考えてその言葉の意味するところを悟ったマサキは、慌てて否定の言葉を口にししようとするも、既にサフィーネの後ろ姿はマサキの声の届かないところにあった。

※ ※ ※

 いつまでも平原に陣取っている訳にも行かないと、ウィーゾル改が去ったのを契機に、マサキもまた場所を変えることにした。
「おい、入るぞ。シュウ」
 グランヴェールとの戦いは、勝ち負けで云えば負けに等しかった。模擬戦の結果をああだこうだとテュッティたちに評論されたくないマサキは、疲れの取れない身体を休められる静かな場所を求めて、シュウが仮住まいにしている独り家へと足を運んだ。
 サフィーネにされてしまったこともある。奔放で気紛れな女狐からの口付けの意味を、もしマサキが訊ねられる相手がいるとしたら、それはシュウしかいない。
 シュウの為にと諜報活動に励んでいたらしいサフィーネが、結果を報告しに彼の許を訪れている可能性もあったものの、それはそれで逆に都合がいいというもの。流石にあの女狐もシュウの前で話をはぐらかしもしまい。そう考えてのことでもあったが、どうやら今日のシュウは家にずっとひとりだったようだ。ふらりと何の前触れもなく訪れたマサキを家に上げると、後は我関せずとばかりにソファの上で本を読み耽っている。
「あのさ」その隣に座り、肩に身体を預ける。「さっき、サフィーネと会ったんだが」
「それでここまで足を運んだという訳ですか」
「情報収集の帰り道、みたいなことを云ってたからな。お前にまた何か頼まれたのと思ったんだが、違うのか?」
「今は特には何も。恐らくは人脈の維持に時間をかけていたのでしょう。結び付きの強いコネクションほど、情報収集に効果のあるものはありませんからね」
 ふうん。気のない返事をしたマサキは、暫くの間、シュウが膝に載せて読み耽っている書物の中身に目を遣った。相変わらず――と云うべきか、何が書かれているのか微塵も理解が出来ない単語の羅列。続く沈黙に、サフィーネにされたことを口にすべきなのだろうか? 勢いに任せてここまで足を運んでしまったマサキは、いざシュウの姿を目の前にすると上手く出てこない言葉に、どうすべきか考えあぐねていた。
「何かありましたか、マサキ?」
 ふと本を畳んだシュウが、マサキの両頬をその滑らかな手で包み込んでくる。とても工学研究に従事している科学者の手とは思えない。骨ばってはいるものの、綺麗な手。シュウに促されるがまま顔を上げたマサキは、いや、別に……と、真っ直ぐにマサキを見凝めているシュウの視線から顔を逸らした。
 訊いてどうなる話でもないのだ。
 だったら取り立てて口にすることもあるまい。
 マサキは自らの身体を包み込んだシュウの手に、そうっと目を閉じた。疲れはいい加減ピークを通り越してしまっている。少し眠りたい。直ぐにぼんやりとし始めた意識に、マサキが安らぎきった瞬間だった。
 ――その割にははっきりとした残り香ですよ、マサキ。
 マサキははっとなって目を開いた。このままなかったことにしてしまえばいい。そう思っていたというのに、この目聡い男はマサキの思惑通りにはことを進めてはくれないようだ。マサキの耳元に口唇を落としてくると、息かかる距離でそうっと囁きかけてくる。
「それに口の端に口紅が残っている」
「あ……っ!?」
 手の甲で拭っただけの口唇。そこに口紅の跡が残っていないなどとどうして云えたものか。シュウの指摘でその事実に思い至ったマサキは激しく狼狽えた。
 咄嗟にシュウから身体を離し、再び口元を拭う。うっすらと手の甲を色付かせるサフィーネの口紅の跡に、背中に冷や汗が噴き出してくる。
「言ってくれれば見逃したものを」
 ふふ……と静かな嗤い声を立てたシュウが、ソファから立ち上がる。何をするつもりでいるのか。動揺に限りのないマサキの目の前で、シュウがサイドテーブルの上から携帯小型端末を取り上げる。
「あなたたちふたりには、何があったのか事情を訊く必要がありそうですね」
 サフィーネに事情を訊ねるつもりなのか、それとも直接ここに呼び出すつもりなのか。携帯小型端末のキーを叩き始めたシュウに、いたままれない気持ちになりながら、マサキはシュウがその操作を終えるのを待つ。

※ ※ ※

 それきり、だった。
 静かに本を読み耽るシュウの隣で待ち続けること半刻ほど。合鍵を持っているらしい。呼び鈴も鳴らさずに家に上がり込んできたサフィーネは、シュウにマサキに口付けた理由を訊ねられると、
「どういった味がするのか、知りたかったものですから」
 悪びれる様子がないどころか、むしろ愉しくて仕方がないとばかりに微笑わらってみせた。
「それに、間接的にでもシュウ様の口唇の温もりを感じてみたかったものですから」
 いじらしいというよりは、挑発的。女であることを武器に出来る女は、だからといって弱々しい女を演じるつもりはないようだ。しらと云ってのけると、試すような眼差しでソファに座るシュウを見下ろした。
「いじましい女心の発露というつもりですか。だからといって見逃すほど、私は優しい性格ではないのですがね、サフィーネ」
「承知しております」
「あなたには罰が必要だ」
「それも充分に承知しておりますわ。何をなさっていただけるのでしょう、シュウ様」
 嗜虐と従属、その両方の嗜好を併せ持つサフィーネは、シュウにされることの全てを受け入れるつもりでいるのだろう。
 罰こそ褒美。彼女にとって、シュウからの罰などといったものは存在しないのだ。紅蓮のサフィーネの二つ名からは想像も付かないしなやかさとしたたかさに、けれども彼らの遣り取りを見守るだけのマサキは胸中穏やかではいられない。
「あなたには何もしませんよ、サフィーネ」
 今にも尻尾を振り出しそうな笑い顔。嬉しそうな表情のサフィーネに、けれどもシュウはその性質を熟知しているからだろう。穏やかに告げると、唐突にマサキの両手首を掴んできた。
「口を開きなさい、マサキ」
 肩まで引き上げられた両の手は、びくともしない。
「な……嫌に決まって……」
「ほら、マサキ」
 無理矢理に重ねられた口唇にマサキは固く口を結んだ。冗談じゃない。そう思うも、シュウからの口付けは止む気配がない。
 一度……二度……三度……触れては離れる口唇に、マサキは意固地になった。人前での口付け。しかも目の前に立っている女は自分の口付けの相手に好意を抱いている。こんな入り組んだ状況に耐え切れるほど、マサキの心は無神経にできてはいないのだ。それなのに。
「あなたへの罰でもあるのですよ、マサキ。もう一度云います。口を開きなさい。開かない限りは続けますよ」
 何度も触れてくるシュウの口唇にいやいやと首を振るも、云ったことは守る男のすることである。マサキの顔を追いかけてくる口唇はマサキの尊厳を奪うことを止めない。
「酷いことをなさいますのね」
 悲観的な台詞の割には笑っているように聞こえる。今にも嗤い出しそうなサフィーネの声に、愉しんでいやがる。羞恥と屈辱で頭がどうにかなりそうになったマサキはついに折れた。
 薄く口を開く。
 開いた途端に押し入ってきた舌が、マサキの舌を搦め取る。
 そもそも疲れて油断していたとはいえ、マサキにとって、サフィーネとの口付けは不意打ちな上に望外の出来事。だのに辱めを受けなければならないのは自分の方である。理不尽だ。マサキはいっそ泣いてしまいたいと思った。
 シュウとサフィーネ。自分とはまた違った絆を持つふたりは、まるでマサキを挟んだひとつの目的の為に結託しているように映る。だからこそ、マサキにはふたりのどちらも憎たらしく感じられて仕方がなくなった。
 それでも、今となっては馴染んだ行為。
 息をすることさえどかしいほどに激しい口付け。濡れた彼の舌の感触が愛おしい。理性を手放したマサキは、シュウの舌に絡むように自らの舌を緩く動かした。クック……と口唇越しに伝わってくるシュウの嗤い声に、微かな口惜しさが胸を過ぎるも、けれども憎々しさはもう感じない。
 元はと云えばサフィーネが悪いのだ。
 その感情をぶつけるように、マサキはシュウとの口付けに溺れた。シュウの舌を味わいながら、時に吸い、時に啄み、時に深く合わせる……素直に口付けに応じるようになったマサキに満足したのだろう。その激しさがなりを潜め始める。そうして、味わい尽くしたといった感じで、ゆっくりと舌が抜き取られる。
 剥がれる口唇。マサキは伏せた目を開いて、長く息を吐いた。
「お邪魔にならない内に帰りますわ」
 揶揄うように言い放ったサフィーネが背中を向けた。それを追うようにシュウが立ち上がる。少しの間。悠然とした足取りでサフィーネに歩み寄ったシュウが、その名を呼ぶ。
「サフィーネ」
「何でしょう、シュウ様」
 羞恥心を捨て、シュウとの口付けに溺れたマサキは、まるで自分が自分でなくなったような感覚に囚われながら、その一部始終をぼんやりと眺めていた。シュウの手がサフィーネの肩に置かれる。次いで、一瞬、その口唇が触れ合った。
「シュウ……様……?」
 さしもの女狐も、その行動の可能性には思い至っていなかったのだろう。驚きを禁じ得ない様子で立ち尽くしている。
「帰っていいですよ、サフィーネ」
「畏まりました。失礼いたします、シュウ様」
 そう、そしてそれはマサキも同様に。
 ――意味がわからない。
 何を思ってシュウはサフィーネの口唇を奪ったのだろう。サフィーネが部屋を出るのを黙って見送るシュウの表情からは、感情の一切が窺い知れない。それが激しくマサキの心をさんざめかせる。嫉妬とも不安とも付かない感情。自らの胸中に渦巻く嵐を、どう処理すればいいのかわからないマサキは途惑うばかりだった。
 かちゃん、と、玄関扉の閉まる音。
 マサキを振り返ったシュウが、口紅の跡を指先で拭い取りながらソファに戻ってくる。
「お前、何で……」
 これが怒りの発露でなければ何が怒りであるだろう。マサキに当てつけるようにサフィーネに口付けてみせたシュウに、マサキの疑念は限りない。マサキは恐る恐るソファに身を収めたシュウに問いかけた。
「何で、こんなこと」
「嫉妬ですよ、マサキ」
 疲れ切った表情。笑顔の消えきった顔が宙を仰いでいる。
「あなたの口唇の温もりを彼女に覚え続けられるなど、私には耐えられそうにない」
 そして溜息とも付かない息を吐き出す。
「隙を見せるのは止めなさい、マサキ。彼女はああいうひとだ。彼女の玩具おもちゃにされたいというのであれば結構ですが、碌な結末を迎えませんよ」
 次いでマサキの肩を抱き寄せてきたシュウは、それ以上この話題に触れる気はないようだ。ソファの上に置いていた書物を膝の上に置くと、何事もなかった様子で続きを読み始めた。

リクエスト「シュウマサ前提で、サフィーネにちょっかい出されるマサキ。結果シュウに叱られる(おしおきされる)2人」