思い立ったらいざ吉日

 軽いベットの感触で目が覚めた。
 ベットを抜け出してカーテンを開けば、月と入れ替わりに太陽が輝きを増してゆくところだった。まだ早いじゃねえか。マサキは開ききらない瞼を擦った。寝直すにも中途半端な時間。ましてや家主シュウの姿がないときては。このまま起きずに済ませろという方が難しい状況に、マサキは先ずベッドを出て窓を開けた。
 早朝の冷えた空気が部屋の中に忍んでくるのを肌で感じつつ、マサキが服を着替えて部屋を出れば、彼は朝食の支度をしているというのでもないらしい。いつもと変わりのない彼の匂いが満つる屋内を往き、洗面所、リビング、書斎と探し回るも見当たらない彼の姿に首を傾げつつ、マサキが玄関を覗くと靴がない。
 どうやら早朝の散歩に出たようだ。納得したマサキはそのままキッチンに向かって、彼の戻りを待ちながら二人前の朝食を準備した。
 軽く焼いたバケットに、炙ったベーコン。目玉焼きを作るのは苦手なマサキだったが、スクランブルエッグはプレシアに褒められるぐらいには上手く作れるようになった。輝ける金色。今日も上手く火が通ったスクランブルエッグに、マサキはひとり満足感を覚えながら、サラダを加えたプレートをテーブルに並べてリビングへ。
 部屋の隅で寝ている二匹の使い魔を起こさぬようにテレビを点ければ、おはようございます。と天井の桟の上から彼の使い魔が顔を覗かせてきた。
「何だ、いたのか。お前の主人はどうしたんだよ」
「あれ? 姿が見えませんか」
 翼を広げてふわりと舞い降りて来たチカがマサキの肩にとまる。マサキはソファに腰を落ち着けた。今しがた点けたばかりのテレビ画面に目を遣れば、早朝だけあってどこの局もニュース番組なようだ。面白くねえな。呟きつつも、それでもないよりはマシだ。マサキはテレビを点けたまま、羽根を繕っているチカに顔を向けた。
「靴がなかったからな。外に出たんだとは思うが」
「散歩じゃないですかねえ。そこの林の生物の生態系が面白いとか何とか云ってましたし」
「わかっちゃいるが、ホントに純粋に身体を動かすってことをしないのな。お前の主人」
「今更ですねえ。研究、研究、また研究。そんなご主人様に何を期待しているので?」
 チカの言葉にマサキは肩を竦めてみせた。
 日常の過ごし方におけるシュウはマサキの対極にあった。ひとりの時間を得れば西へ東へ、サイバスターを駆って放浪するマサキに対して、シュウは研究に時間を割いてばかり。
 聞けば、知識と名の付くもの全てに欲を感じずにいられないのだとか。
 あなたの食欲と同じですよ。いつかマサキに揶揄うように云って聞かせてきたシュウは、自身の言葉を裏切ることなく、暇にあかせては食事も余所に書物をつまびらき、そこで得た知識を元に研究を繰り返している。
 彼にとって知識とは実証すべきものであるのだそうだ。
 果てしないトライ・アンド・エラーの先に一筋の光明が差し込む瞬間は、何度経験してもこれ以上の幸福はないというぐらいにシュウの心と身体を満たしてくれるものであるらしい。俺には理解出来ねえ。マサキがぽつりと洩らせば、チカはチカでそういったマサキの態度こそ理解が及ばなかったのだろう。そんなご主人様と好き好んでつるんでるのに? と驚いたように声を上げた。
「そりゃあ、まあ。一緒にいるのに楽だしな。がやがや耳元でがなりたてられることもない。あっちに行こうこっちに行こうって腕を引かれることもない。あいつが気紛れに街に出ようって云い出すぐらいで充分なんだよ。何処かに出掛けるなんてイベントはさ……」
「わかりました。マサキさんもそういう生活をあちらで送ってるってことですね」
「“も”ねえ。ってことは似たような騒ぎ方をしてんのか。あの金魚の糞どもは」
「あたくしも口が悪いってご主人様に云われますけど、マサキさんの口の悪さはそれに勝ってると思うんですよね。何であの潔癖なご主人様がマサキさんを傍に置こうと思ったのか。あたくしには理解出来ませんよ」
 まるでマサキでは役不足だとでも云いたげな彼の言葉に、けれどもマサキが傷付くことはもうない。
 マサキは勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。そういった自分を選んだのはシュウである。それは彼が他人の容姿や振る舞いだけだけに左右されないということを如実に物語っていた。
 シュウはマサキに対して寛容であるのだ。
 それは彼がマサキの人間性を内面にこそ見出していたからに他ならなかった。どれだけ趣味や嗜好を同一にしても、根本的な考え方の違いはいずれ決定的な亀裂を生むようになるだろう。それを良く知っている彼は、だからこそマサキの粗野で粗暴な振る舞いにも寛容さを見せるようになった……。
「やだやだ、その顔! 滅茶苦茶愛されてるって自覚があるって顔をしてやがる! 何だか口惜しい!」
「でも事実だろ」マサキは声を上げて笑うと、リビングの開口部に目を遣った。「しかし遅いな。朝飯が冷めちまう」
「ちょっと外を覗きに行ってみますか?」
 そうだなと頷いて、マサキはチカを肩に乗せたままリビングを出た。玄関でブーツに履き替え、外に出る。道を同一にする林にかかる朝のもや。ぼんやりと浮かび上がる木々の向こう側に、いつの間にか見慣れた青い機体が屹立している。
「何だ? グランゾンをこっちに持って来やがったのか、あいつ」
「あー。てことは、何か思い付いちゃったってことですよ。それを確認するのにグランゾンを出してきたってトコじゃないですかね。ご主人様は思い立ったらいざ吉日って性質ですから」
「てめえの研究所でやれよ。ここまで持って来ることはないだろ」
「ええ? それ本気で云ってます、マサキさん?」
「こっちと向こうじゃ設備も違うだろうよ。改修、ってなったら絶対あっちの方が都合がいいだろ? 合理的だの効率化だの云う割には不思議なことをしやがる」
「いやいや、そうじゃなくて。あのー、マサキさん。本気で気付いていない?」
「何をだよ」マサキはチカを見遣った。
 丸く黒々とした瞳の中に映り込む歪んだマサキの顔。姿だけは立派なローシェンであるチカは、滅多なことで表情を変えてみせることがない。彼の黒々とした瞳はいつだって彼が惚けているように見せてくる。
 けれども彼がマサキの態度に不満を感じているのは間違いない。次の瞬間、チカは大声を上げながらマサキの肩から飛び立った。
「本当に困った人ですね! この朴念仁は!」
 どうやら思い当たる節のないマサキに業を煮やしたようだ。マサキの周囲を飛び回りながら、何なの! 本当に何なの! 理解不能といった態で言葉を吐き続けたチカは、ややあって、マサキの目の前に降りてくると、忙しなく翼を羽ばたかせながら囃し立てるように言葉を発した。
「寝ても醒めてもマサキさんを傍に置いておかずにいられないご主人様が、マサキさんひとり残して研究所に篭れる筈がないでしょ! ほら、行きますよ! 折角作った朝食、食べて欲しいんですよね? 放っておけばあの研究の虫、半日ぐらいは余裕で時間を潰しますからね……」
 ぎゃあぎゃあと喚き散らしながら先をゆくチカに続いて、マサキもまた林の中に足を踏み入れる。何だ、そんなことか。チカの言葉でシュウの行動に理解が追い付いたマサキは、彼の揺らぐことのない自身への愛情に口元に浮かんでくる笑みを堪えきれなかった。
 木々の合間から覗く青い機体に向かって、一歩、また一歩と足を進めて行く。
 朝露でぬかるんだ道を往くこと暫く。背部が開いたグランゾンの許へと辿り着いたマサキは、一足先にその内部へと舞い込んで行ったチカに、いずれ何某かのリアクションがあるだろうとその場で待つことにした。
 そろそろ朝を告げる鳥の囀りが辺りに響き始めている。
 作った朝食をバスケットに詰めて持ってくるべきだっただろうか? マサキが悩み始めたその矢先に、木板をロープで繋いだ梯子がカラカラと音を立てて下ろされた。上がって来いということらしい。マサキはロープを確りと握り締めながら、一段、また一段と梯子を上がって行った。
「ああ、マサキ。来たのですね」
 開いた背部は動力システムへと続いているようだ。薄らぼんやりとした光を放っている動力源の前にシュウが膝を付いているのが見える。肩にはチカ。ほら、マサキさんが来ましたよ。その言葉に彼はマサキを振り返り、これを、と遮光グラスを差し出してきた。
「中をうっかり覗いてしまっても大丈夫なように掛けておいてください」
 マサキはシュウに倣って、そのグラスを掛けた。薄暗くなった視界を突き抜けてくる淡い動力源の光が、動力システムの内部を神秘的に照らし出している。綺麗だな。呟いたマサキに、そう云えるのはあなたぐらいですよ、マサキ。シュウは手元の端末を弄りながら笑った。
「どれだけ綺麗な言葉で飾っても、これは人殺しの道具ですよ。機械は使い方次第などと賢しい人間は云いますがね」
「その人殺しの道具をお前が弄り続ける理由は何だ。それ以外の可能性を信じているからじゃないのか」
「どうでしょうね」タン、と小気味よい音を立てて端末のキーが叩かれる。「そういった可能性がもしあるのだとしたら、それは私が思い付くものではなく、あなたが生み出すものであるのでしょう」
「ご主人様はマサキさんを買い被ってるように、あたくしには思えるんですがね」
 それにシュウは答えず、ただ静かに微笑んでみせるだけだった。
 ウォォォ……ンと鳴り響く、動力炉の稼働音。シュウが何を思い付いたのか、それを果たして無事にグランゾンに組み込めたのかはマサキにはわからなかったが、彼としてはこれ以上この場ですべきことはないと判断したようだ。立ち上がるとマサキに外に出るよう促してくる。
「ところで、あなたはどうしてここに?」
「朝食の支度が済んだからだよ。放っておいたら、お前、いつまでもグランゾンを弄り続けるだろ」
 頷いたシュウがグランゾンを振り返る。そうして背部を閉ざしたグランゾンに、少しばかり名残り惜しそうな視線を向ける。恐らくはまだやりたいことがあったのだろう。けれどもマサキとの朝食という誘惑には打ち勝てなかったのだ。
「そういうことでしたら戻りますよ。一緒に朝食を食べるとしましょう」
 はあーあ。盛大な溜息を洩らしたチカが、ふわりと宙を舞いながらけたたましく喚く。
「研究の虫のご主人様も、マサキさん相手では形無しですね! さあさあさっさと家に戻りましょう! あたくしもそろそろお腹が空いてきましたよ! ごーはん、ごーはん……」
 マサキはシュウと肩を並べて歩き始めた。そうして、少し前をふわりふわりと舞うチカの後に続いて、濡れた大地を踏みしめながら、きっと冷めてしまっただろう朝食が待っている家へと、シュウとゆったりと会話を紡ぎながら戻って行った。