人けのない通路をマサキは連れを持たずに歩いていた。使い魔さえもいない道のり。宇宙空間を往く戦艦はしっかりと温度管理がされていたが、その硬質的な印象もあってか。複層合金プレートが張り巡らされた通路の空気はやけに寒々しく感じられた。
床を踏む度に靴底がカツカツと音を立てる。
反響具合によるものだろう。真後ろから耳を撫でてくる靴音に、マサキは幾度も足を止めて背後を振り返った。カツン……カツン……自分の靴音だとわかっていても気味が悪いこと他ない。
自分の足音から逃げるように足を速め、通路の先を急ぐ。
何処かわからない区画に迷い込んで三十分以上が経過していた。
ロンドベルの巨大な戦艦の内部は、方向音痴のマサキにとっては迷宮のようなものだ。飾り気のない壁と床の所為で、どの通路も同じ形をしているように見えて仕方がない。だからマサキは迷わずに済むようにと、なるべく誰かと行動をともにするようにしていた。
はぐれたのだ。
食堂に向かう予定だった。生活用施設は艦の中層部に集まっていて、割り当てられた部屋から食堂までは、普段であれば五分も歩けば着く。それでもマサキは油断をしなかった。仲間が迎えに来るのを待ってから居住スペースを出たマサキは、彼らの後に続いて、真っ直ぐに食堂に向かっていた――筈だった。
あー、もう。マサキは声を上げた。
娯楽の少ない戦時中において、食事はその最たるものだ。ゲル状、或いはゼリー状のレーションが栄養補給の要となる戦闘時。長時間戦闘ともなれば尚更だ。さっと飲み込んで戦列に復帰する日々で、形のある固形物を口に出来る機会などそうはない。
ましてや、艦には先日の補給で豊富な食材が積み込まれたばかり。これで食事のメニューに期待をしない方がどうかしている。
それだのに。
仲間はおろか、使い魔ともはぐれてしまっている今、マサキはひとりでこの苦境を乗り越えなければならなかった。食堂に辿り着く為には、とにかく人がいる区画に出る必要がある。マサキは自分を奮い立たせて、カーブを描いて続いている通路の先に目を遣った。相変わらず人けのない通路が続いている――と、その向こう側から細く長い人影が現れた。
マサキは目を瞠った。
天の助けだ。
ところが運命は、そうは容易くマサキに微笑みかけてくれなかった。靴音を高らかに響かせながら、徐々に近付いてくるシルエット。遠目にぼんやりと映っていた人影がその輪郭を露わにする。それを見て取ったマサキは、脱力感と無力感、そして絶望感に苛まれた。
シュウ=シラカワ。
かつて敵対していた男とマサキは、今は協力関係にあった。
サーヴァ=ヴォルクルスの支配が解けた彼は、最早、以前のように世界に牙を剥くような存在ではない。それがわかっていながらにして尻込みしてしまうのは、彼の性格や気質がマサキと対立するものであるからだ。
繊細な激情家である彼は、穏やかな反面、皮肉屋でもある。気に入らない相手には容赦なく嫌味を吐き、黙り込むまで攻撃の手を緩めはしない。特にマサキに対してはそれが顕著で、一分で済む話が十分になることも珍しくなかった。
しかも頭脳明晰ときたものだ。
彼の弁舌に太刀打ちするのは、口達者なマサキでも難しい。たかだか道を尋ねる程度のことでありながら、マサキが躊躇ってしまったのはだからだった。いつ食堂に辿り着けるかもわからないのに、余計な体力を消耗したくない。早くも数メートル先に迫っている男の影に、マサキは決心を固めた。無視をして遣り過ごす。口さえきかなければ諍いが起こることもない。
ゆっくりと、なるべく自然に、そして無言で彼の脇を通り抜ける。
刹那、強い力で腕を掴まれたと思うと、有無を云わせずに身体が壁に押し付けられた。何をしやが……発した言葉が全てを露わにすることなく、シュウの口に飲み込まれてゆく。マサキは空いている手を振り上げた。彼の胸を叩き、その激しい拘束から逃れようともがく。けれども深く合わさった口唇はぴくりとも動かない。
口腔内でマサキの舌に絡み付いてくる彼の舌はまるで蛇のようだ。うねり、猛り、獲物を捕食せんと激しく動き回る。いつなんどき誰かが通りかからないとも限らない場所でいい度胸だ。息苦しさに目を細めたマサキは手を下ろした。
この男はいつもそうだ。身勝手にマサキを奪う。
気紛れに、唐突に、意識しない場所で触れてきては、マサキの身体を浚ってゆく。そしてえもいわれぬ快楽でマサキの心を溶かしてゆく。まるで遅効性の毒だ。ゆっくりと身体に回っては、いつの間にか身動きが取れなくなる……マサキはその激しい口付けに応じながら、そろそろと胸を焦がしてゆく情動に身体を熱くした。
どうしようもなく憎たらしくて堪らないのに、どうしようもなく恋しくなる。
舌を絡めた分だけ、増してゆく愛おしさ。情に絆されているだけなのはわかっていた。そう、思いがけず温かなシュウの肌の温もりに惑わされているだけなのだと。
「迷ったのですか」
ややあって剥がれた口唇が、まるで睦言を囁き掛けるように甘い戦慄を奏でる。
「食堂に行きたいんだよ。連れていけ」
「その後に私に付き合ってくださるのなら」
「馬鹿じゃねえの、お前。飯の後に付き合えって、腹に入ったもんが出ちまうだろ」
「なら、今付き合ってもらいましょうか。食事はその後の方が都合がいいのでしょう」
云って、もう一度口付けてくるシュウに、マサキは今度は素直に目を閉じた。下げた手を持ち上げ、襟を掴む。そうして、思うがままにその口唇を貪る。
舌を絡めて口付ける。たったそれだけの、行為。プラーナが枯渇し易いマサキにとっては当たり前な行為がこんなにも心地良いと感じられるようになったのは、彼との口付けを知ってからだった――……。
少しだけだぞ。顔を離してマサキは云った。
勿論ですよ。整い過ぎたきらいのある顔が、優美に微笑む。
氷上に咲く花のように、冷ややかながらも艶めいている。彼の深い色を湛えた紫の瞳を真正面から見据えたマサキは、その中に映っている自らのしどけない顔つきにはっとしながらも、誘惑には抗えずに。シュウと肩を並べて、人けのない通路を歩んで行った。