「まだやってらっしゃるのですか、シュウ様」
テーブルを挟んで差し合わせにチェスの盤面を睨み合っているシュウとマサキの姿を、朝の世話をしに来たらしいサフィーネが覗き込んで言葉を吐く。困惑しているようでもあり、呆れているようでもある。サフィーネのその表情は、シュウとマサキの勝負が相当な時間に及んでいることを示していた。
「そもそもシュウ様が本気を出せば一瞬で片が付く勝負でしょうに。何故ひと晩もマサキなどに付き合って差し上げているのです?」
「面白いからですよ、サフィーネ」
面白い、と怪訝そうにサフィーネが問い返した所で、もう朝かよ。マサキは頭を掻きながら呟いた。
昨日の昼下がりに、どこからかシュウが持ち出してきた少しばかり年季の入ったチェスのセット。考え事をする時に盤面を作って手を進めていると、思いがけない発想が降ってくることがあるのだとか。そんなことを云いながら、テーブルの上にチェスのセットを広げ始めたシュウに、折角の勝負だ。だったら何か賭けようぜ――と、マサキが云ったのが切っ掛けだった。
――あなたがチェスを嗜むとはね。
短気な性質であるマサキが知的な遊戯を嗜むなどとは想像すらしたことがなかったようだ。退屈だと繰り返しながらシュウにじゃれついていたマサキに、冗談のつもりだったのだろう。なら、チェスでもやりますか? と持ち掛けてきたシュウに、いいぜと答えた瞬間の驚きに満ちた表情! けれども彼は直後にマサキが放った「将棋と似たようなもんだろ」という言葉に納得がいった様子で、将棋歴はどのくらいと尋ねてきた。
――幼稚園の頃に教わったんだよ。つーても、周りのガキに将棋が出来るヤツなんてそんなにいなかったからな。新聞の棋譜や、親父が買ってくれた詰将棋の本を、ひとりで延々解いてたくらいさ。
――なら、念の為にチェスのルールをおさらいすることにしましょう。
そうしてテーブルに差し向いに、チェスの盤を挟んで腰を落ち着けた。
シュウから駒の動かし方を教わったマサキは、それを脳内で将棋の駒と対応させた。キングが王将、ビショップは角行、ナイトは桂馬……巷でよく話されるように、駒の役割にはそんなに違いはなさそうだ。強いて云うのであれば特殊な動きをするクイーンが曲者ではあったものの、縦・横・斜めに幾らでも動き回れるという将棋にはない駒は、立ち回りの幅を広げてくれそうだった。
続けてルールについてもシュウは事細かに教えてくれた。チェック、チェックメイト、ステイルメイト……将棋で云う千日手や持将棋といったルールにも、名前はないものの近いものものが存在している。その他に、アンパッサンやキャスリングといった将棋にはないルールもあるにはあったが、ハウスルールだと思えば慣れるのも容易い。これなら苦労せずにチェスに馴染めそうだ。マサキは久しぶりの対人戦に興奮を抑えきれずにいた。
「賭けようぜ、シュウ。俺が勝ったらデザート込みの食べ放題をお前が奢る。お前が勝ったら俺がお前の欲しがってたワインを一本買ってやるよ」
純粋な勝負を愉しみたがる性質のシュウは、勝負に賭け事を持ち込むのを嫌がるかと思いきや、マサキの提案にあっさりと了承の言葉を吐くと、拍子抜けしているマサキには構わず、早速とばかりに駒を動かしてゲームをスタートさせた。
勿論、相手は十指に及ぶ博士号を有するほどの比類なき頭脳を誇る男だ。どれだけマサキが将棋を得意としていようが、そうそう勝てる相手ではない。そう、所詮は暇潰し。だからこそ、マサキはひと勝負したらそこで終わりにしようと考えていたのだが――。
「そろそろ降参ですか、マサキ」
「巫山戯たことをぬかしてるんじゃねえよ。まだまだやれるぜ。これでどうだ」
「何故、あなたはそうやって自分の手を作ることばかりに夢中になるのでしょうね。詰将棋のし過ぎではありませんか、マサキ。と、いうことで、ステイルメイトです」
「あーっ! まただ! またやっちまった!」
マサキはテーブルに突っ伏した。
その頭上で、ほら、とシュウがサフィーネに、先程の言葉の意味を理解しただろうとでも云いたげに語りかけている。
「これで五十回目の引き分けなのですよ」
「もしや、シュウ様はわざと引き分けになるように、勝負をコントロールしていらっしゃるのですか」
「当然ですよ、サフィーネ。ただ勝つのも面白くありませんしね」
薄々勘付いていたこととはいえ、こうも勝ち誇った風に口にされると面白くないものだ。マサキはテーブルに突っ伏したまま、口唇を尖らせた。
確かにマサキは負けると思っていた。頭脳が違えば、キャリアも違うのだ。それでも、まさかここまでシュウにいいようにゲームメイクをされるとは。マサキはある程度シュウの性格を熟知しているつもりであったけれども、それでもまだまだシュウの考えや思考を読み切れるまでには至っていない。
それがマサキの闘争心に無駄に火を付けてしまった。
このままおめおめとは引き下がれない。だからマサキはもうひと勝負、もうひと勝負と、夜通し次の勝負を求めてしまった。
その結果が、五十回目の引き分けだ。
マサキは深く溜息を吐いた。どれだけ名人級の人間が相手だろうが、これだけ勝負を続ければ、一度ぐらいはまぐれで勝つころもあるだろうに。シュウの正確無比な盤面コントロールの妙技は、まるで機械を相手にしているようだ。マサキは考えた。区切りのいい数字になった対戦数。ここで引くか、それとも勝負を続けるか……そうして覚悟を決めたマサキは顔を上げた。せめて一勝はもぎ取ってやる。
「シュウ、やるぞ。もうひと勝負だ」
「構いませんよ。サフィーネ、ゲームをしながらでも食べられるように、サンドイッチを作ってきてはくれませんか」
どうやらシュウは食事だからといって手を休めるつもりはないようだ。奇妙珍奇な注文に、主人に対する忠実さが取り柄のサフィーネも、流石に二の句が続かないようで、呆けた表情を派手に晒している。それもそうだ。マサキの意地を知力で吹き飛ばす主人は、その底意地の悪さをまだまだ如何なく発揮するつもりなのだ。これで呆れない方がどうかしている。
畏まりました――と、サフィーネが口にしたのはそれから数秒後のこと。
キッチンに向かった彼女に、さあ、始めましょう。シュウは徹夜明けとは思えぬほど愉し気な表情を浮かべながら、並べ終えたチェスの駒に手をかけた――……。
結局、マサキが勝負から身を引く決心を付けたのは、これから半日後のこと。ただの一度たりともお互いに勝ち星を上げることなく終わったチェス・ゲームに、疲労困憊で帰宅の途に就いたマサキは、もう二度とシュウの前で迂闊に退屈だなんて口にするもんかと、誓わずにいられなかった。
今日の二人はなにしてる?
今日のシュウとマサキ
二人でゲームをする。最初は一戦のつもりだったのに白熱しすぎて一日費やす。