I want to make love with you.

 ――かあさま……

 母の手で胸に傷を受けた直後、それ・・はシュウを包み込んだ。

 ――かあ、さま……

 陽射しの強い日に足元に出来る黒々とした影のような靄が、じとりと滑った感触を伴ってシュウの肌に張り付いてくる。
 怖い。反射的に覚えた恐怖心に、シュウは靄を振り払おうと藻掻いた。けれどもどうしても剥がれぬ。それもその筈。傷を負ったシュウの身体は、思う通りには動かなくなってしまっていた。
 嫌だ! シュウは声を上げようとした。
 微かに捲れた口唇の合間からひゅうひゅうと呼気が洩れた。シュウはそこでようやく、自らの生命が危機に瀕していることを覚った。死にたくない。そうは思えど、流れ出る血は冷酷にもシュウの身体から体温を奪っていっている。

 ――気持ち悪い……気持ち悪い……気持ち悪い!

 胸に刻まれた傷が焼けつくような痛みを放っている。けれども、最早、そんなことはどうでもよかった。とにかく生き延びなければ。シュウは這ってこの場から逃げ出そうとした。しかし、もううつぶせになることさえも出来なかった。
 身体が鉛のようだ。重くて重くて堪らない。
 どれだけ息を吸っても入ってくる気のしない空気。それが靄の所為であるのか、それとも胸に負った深い傷の所為であるのかシュウにはわからなかったが、わかったところで絶望的な状況が覆る由もない。
 そもそも生き延びたところで、シュウが自らの母親に刺されたという事実は消えないのだ。
 だったらいっそ死んでしまった方がいいのではなかろうか。シュウはとうに視力を失った瞳を閉じた。ほんの少し辛抱すれば、自分の命は潰えることだろう。そう思いながら、死の先にある解放を待って、シュウは痛みと息苦しさと気持ち悪さに耐えた。

 ――ナラバ、ソノ身ヲ我ガ貰イ受ケヨウ!

 シュウの心に直接語りかけてくるような声だった。それが響き渡った次の瞬間、全身の毛穴という毛穴から、何かがシュウの身体の中へと一斉に入り込んできた。

※ ※ ※

 他人に触れられるのを嫌う男だとは思っていた。
 気安く肩に手を置かれようものなら、さっと手で払い除けてみせる。そして、二度はないというように、切れ長の眦で冷ややかな視線を注いでは、気圧されている相手を尻目に無言で立ち去ってゆく。かつてのシュウは、そうやって他人を寄せ付けぬよう振舞うのが常だった。
 けれども仲間を得たシュウは変わった。
 先ず、彼らに触れられるのを大っぴらに厭うような真似をしなくなった。それどころか腕を組まれても嫌がる素振りひとつ見せない。もしかすると内心では思うところがあったのかも知れなかったが、以前と比べれば、そういった感情の一切を覚らせなくなった分、付き合い易い人間に映るようになった。
 そうした彼の劇的な変化に、信頼を寄せる相手であれば触れられても問題ないのだと思ったマサキは、だから彼から好意を告げられた時に、自分が彼に触れても避けられるようなことはもう起こらないだろうと思っていた。
「で、三日ですか」
 テーブルの上に乗っているチカが呆れたように言葉を吐く。
 マサキはシュウの家にいた。
 逗留すること四日。そろそろ王都に戻らなければならない時期に差し掛かってはいたが、家を出て行ったまま戻ってくる気配のないシュウを放置してはおけなかった。
 とにかく彼の無事を確認してからでなければ帰れない。使い魔二匹と家に残っているマサキに、主人を放置して当てのない放浪の旅に出ていたチカが戻ってくるなりその原因を聞いて溜息を洩らしているのはだからでもある。
「どうせその内、何事もなかったかのように連絡をするとは思うんですけどねえ」
「だけど三日だぞ。三日も戻ってきやしねえって、それってそれだけ俺と顔を合わせるのが嫌だってことだろ」
「まあ、どっかの家にはいますよね。ここに戻って来ないってことは」
 敵の多いシュウはラングランの各州に、生活の拠点と出来る住居を多数所有していた。普段の彼がその内の何処に居るのか、正直マサキにはわからない。わからないからこそ、マサキは彼からの連絡で呼び出された場所に赴くだけだった。
 大抵は王都に程近いこの家だった。離れたとしてもラングラン州を跨いだ程度――。だからマサキは彼の住居の在処の全てを知らぬままだ。
 これでは探しに行こうにも探しきれない。律儀にもマサキがこの家でシュウの帰りを待ち続けているのは、方向音痴な自分がシュウと行き違ってしまうのを怖れたのは勿論だったが、それ以上に彼の行き先に心当たりが少ないのが原因だ。
「焦り過ぎなんですよ、マサキさんは」
 ととととテーブルの上を歩き回っていたチカが、ふわりと宙を舞ってマサキの肩に飛び移ってくる。
「厚顔不遜が服を着て歩いているような人ですけど、あれでご主人様、トラウマの塊みたいなもんですからね。何に何がどう引っ掛かるかなんて、サフィーネさんたちですらわかってない。長くご主人様と一緒にいるあの人たちですら、未だに地雷を踏むんですよ? 幾らご主人様と付き合っているとはいえ、出会ってからの年月が短いマサキさんにその全てがわかる筈がないでしょうに」
 キスは出来るようになったのだ。
 それとて容易な道のりではなかった。自らマサキに告白してきておきながら、その了承を得られるとは思っていなかったらしいシュウは、マサキに触られるという現実に覚悟が出来ていなかったようだ。始めの内は、些細なスキンシップにすら身体を退いてみせたものだった。
 マサキが肩に手を置いても払われなくなるまで一ヶ月。
 そこから先に進むのに半年。
 震える口唇を重ねてきた彼は少しばかりで顔を離すと、すみません――と謝罪の言葉を口にした。
 この調子では一生彼と寝屋をともにすることはないのではないか。焦ったマサキは顔を合わせる度に彼に口付けをねだった。断られることも多かったが、やがて、三度に一度は口唇を触れ合わせてくるようになった。
 三ヶ月も過ぎる頃には彼から口付けられるのが普通になった。
 かといって、それで全ての問題が解決した訳ではなかった。
 人並みの性欲の持ち主であるマサキは、欲を発散出来る相手がいながらにして、自慰に耽らなければならない現状に耐え兼ねていた。それもそうだ。シュウの告白から一年。手を繋ぐこともなければ腕を組むこともない相手と、むしろキスだけでよく我慢した方だと云えるのではないだろうか。
 セックスがしたい。シュウとキスをするのが当たり前となった今、マサキの中の欲は強くなる一方だった。
 だからマサキはシュウを誘った。いつものように口付けを交わした後に。
 その瞬間、えもいわれぬ表情を浮かべたシュウは、目を伏せて考え込むこと暫く。どういった結論に至ったものか。黙ってソファから立ち上がると、マサキを振り返りもせずに家を出て行ってしまった――……。
「でも、そういうの嫌なんだよ。俺は」
「嫌だと云って治るもんじゃないですからねえ」チカが溜息を洩らす。「本人だってとうに吹っ切った気ではいるんですよ。じゃなきゃどうして教団をぶっ潰すなんて選択が出来ますか! でも、それでどうにもならないから、トラウマは心的外傷と書かれる訳でして」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「果報は寝て待てですねえ」
 言葉通りに羽根の中に首を埋めたチカが、瞼を瞬かせ始めた。
 長く旅に出ていた疲れが出たのだろう。寝てもいいですか。そう口にした彼に、駄目に決まってんだろ。結論を出さずに話を途中で切り上げられるのが嫌いなマサキは、肩を大きく揺すりながら答えた。
「これは横暴! あたくしちゃんと果報は寝て待てって云ったのに!」
「もう待つのには飽きたんだよ」
「そうは云われましてもねえ。そもそも、あのご主人様が手に入れた獲物を目の前にして引き返す筈もなし。いずれはちゃんとするつもりはあるんじゃないですか? それがいつになるかはあたくしにはわかりませんが」
「わかった。ならここで待つ」
「人の話を聞いちゃいない!」
 目を丸くしたチカがマサキの肩から飛び上がった。そして、「馬鹿なんですね? 馬鹿なんでしょ?」そう騒ぎながら、今度はマサキの二匹の使い魔へと迫っていく。きっと、無謀な主人を窘めろと云うつもりであるのだ。わかっていても帰れない。マサキは神経質な見た目以上に繊細ナイーブなシュウ=シラカワという男を、それでも心の底では信じていたのだ。
 それだけ、シュウは強欲な人間だった。
 自らを利用する者や自らの目的を阻む者を許さない彼は、機会が巡ってこようものなら、遠慮なく彼らを叩き潰してみせた。血で切り拓かれた彼の往く道。それは、一度こうと決めた以上は、どれだけの困難に見舞われてもやり遂げてみせるという彼の決意の表れであった。
 そうである以上、マサキを手に入れた彼がどうして現状で我慢してみせたものか!
 決して色恋沙汰に貪欲ではないマサキですら、我慢が限界を迎えようとしているのだ。マサキ以上に貪欲な彼が、現状に甘んじるが如く我慢を重ねているなど想像し難い。そもそもシュウに我慢なんて似合うかよ。マサキはシロとクロを相手に長広舌を繰り広げているチカを眺めながらそう呟いていた。
「いや、だからそれが心的外傷ってヤツなんじゃないですか!」
「納得いかねえ」
「納得してくださいよもう! ご主人様が報われない! だってマサキさん、考えてもみてくださいよ。精神世界を侵しに来るって、考えようによっちゃ世界最強のストーカー! そんなヴォルちゃんに延々絡まれ続けてるんですよ! そりゃあ、あの剛健タフなご主人様だって色々参るに決まってるじゃ――」
 そこではたと言葉を止めたチカが、嘘ですよね? 云いながらリビングを飛び出して行く。
 マサキは二匹の使い魔とその後に続いた。チカに感じ取れる気配を感じ取れないマサキではない。強力なプラーナの波長は、紛れもなくこの家の主が帰宅したことを伝えている。
「……まだ、いたのですか」
 マサキの姿を目にした彼は、あからさまにマサキの存在を迷惑と感じているような言葉を吐いた。
 いや、絶望した風でもあり、困惑した風な表情でもある辺り、マサキがとうに王都に帰っていると思い込んでいただけなのかも知れない。マサキはシュウに抱き付いた。このまま彼と一生顔を合わせない未来など考えられない。
 首に回した腕の下で、微かにシュウが身体を固くする。
 彼の緊張感を感じ取ったマサキは、肩に埋めた顔を上げてシュウの顔を見た。深く昏い紫水晶アメジストの瞳が、影差す顔の中央で揺らめいている。嗚呼――と、マサキは胸を締め付けられる思いに捉われた。
 彼は戦っているのだ。マサキの知らない過去と。
 全身を強張らせるほどの恐怖心。ただの潔癖症では片付けられないトラウマを抱えてしまっているシュウは、それでもマサキへの好意ゆえに、その手を振りほどくような真似はしないでいてくれている。ならば、マサキのすべきことはひとつ。
「話をしようぜ、ふたりきりで」
 そう口にしたマサキから視線を外したシュウが、周りを取り囲んでいる使い魔たちを見遣って、リビングで待っているようにと告げる。そしてやんわりとマサキの腕を外した彼は、行きましょう。とマサキを促して寝室へと入って行った。

※ ※ ※

 寝室の窓際に置かれている丸テーブルと二脚のひとりがけソファ。そこに腰を落ち着けて、マサキはシュウと差し向かいになって話をしていた。
「わかっているのですよ、自分でも。馬鹿々々しいことに囚われていると」
 シュウにとって、それは相当に忌まわしい記憶であったようだ。とうに過去となったこと――と、口にしながら、サーヴァ=ヴォルクルスとの始まりの記憶をマサキに語って聞かせた彼は、うっすらと汗を掻いている自らの手のひらを眺めて、物寂し気に呟いた。
「わかってはいるのですがね……」
 苦悩がありありと窺える表情だった。
 マサキに対する欲と自らのトラウマの板挟みになったシュウは、マサキから求められたことで、この先の自分がどうマサキと付き合っていけばいいのかがわからなくなってしまったのだそうだ。
 当然だ。マサキはシュウに聞かされた過去に、自分が先を急ぎ過ぎていたことを覚らずにいられなかった。
 死にかけているシュウの身体に乗り移ったサーヴァ=ヴォルクルス。彼はシュウの命を助けるのと引き換えに、自らの傀儡としてシュウを扱い続けたのだ。そう、シュウの意識の底に棲んで……。
「……知らなかったとはいえ、無茶を云った。ごめんな、シュウ。それは俺が全面的に悪い」
「いいえ、マサキ。そういった話だけではないのですよ」
 シュウの手がマサキの頬に伸びてきたのは、彼がそう言葉を発した次の瞬間。私もあなたも男だ。そう続けたシュウが自嘲めいた笑みを浮かべながら首を横に振る。
「私はあなたを抱きたいのですよ、マサキ。あなたが私をどうしたいと思っているのかはわかりませんが、私は少なくともあなたを抱きたくて仕方がない。あなたを想ってひとりで眠る夜が辛く感じる程度にはね。滑稽でしょう。私はあなたにまともに触れることも出来ないのに」
「いいや」
 マサキは頬に添えられているシュウの手を掴んだ。いいや。そしてもう一度、否定を繰り返す。
 汗ばんだシュウの手のひらの温もりは、彼の勇気の表れだ。それをどうしてマサキが笑えるだろう。重い過去を乗り越えたいと望むぐらいに、シュウ=シラカワという人間はマサキ=アンドーという人間を必要としてくれている。
「嫌ではないの?」
「何がだよ」
「私に抱かれることですよ」
「まあ、そりゃ……」
 マサキはシュウの手を握り締めた手に力を込めた。きっとすんなりとは行かないと思うぜ。その手を自らの口唇に運んで行きながらそう言葉を継ぐ。
「でも……」
 白く、滑らかで、骨ばったマサキよりもひと回り大きな彼の手。その手の甲に口付けてからマサキは笑った。
「その覚悟が出来てなきゃ、お前の告白にイエスって云えないだろ」
 どちらでも良かったのだ、マサキは。
 マサキの前に立ちはだかった強大な敵。伸びた鼻を盛大にへし折ってくれた男は、みっともないマサキの姿を誰よりも良く知るたったひとりの人間だ。今ではマサキの心の一番深い場所を占めている彼に、だからマサキはどちらでもいいと云えた。
 シュウの望むがままに。
 シュウの前でのマサキは、取り繕うこともしがみ付くこともせずにいられる。
 マサキ。と、澄んだ声がマサキの名を呼んだ。どれだけ高価な金管楽器でも、これ以上美しい調べを奏でることは出来まい。それはマサキをしてそう思わせずにいられないぐらいに、様々な想いが詰められた呼び声だった。
「あなたに触れては駄目?」
 先程まで口付けていた彼の手が、マサキの口唇を撫でてくる。
 それは決して額面通りの意味ではないのだろう。柔らかくも淫らなシュウの指の動きに、酷く瞳が潤む。マサキはその指先に舌を這わせながら、こくりと小さく頷いた。
「でも、無理はするなよ」
「大丈夫ですよ」
「そういう意味じゃなくて、お前がさ……」
「勿論。どの道、一度にするのは無理なことですしね。私を慣れさせる為にもゆっくりやります」
 席を立ち上がったシュウが、ゆっくりとマサキの脇に歩んでくると、その身体を両腕に抱え込んだ。
 マサキは腕をシュウの首に絡めた。降りてくる彼の顔に、触れ合う口唇。まだ先が長いことはわかっていたが、ようやくこれでまた一歩先に進めるのだと思うと、悦びとも安心感ともつかない感情が湧き上がってくる。
 ――好きですよ、マサキ。あなたは私の輝ける光だ。
 ベッドに横たえられた身体にシュウが覆い被さってくる。惚れ惚れするぐらいの美しさ。彼の端正な顔を間近に、何度目の愛の告白を受けたマサキは、知ってる。と、頷いて、続く彼からの降るような口付けを一身に受けた。

リクエスト「生贄時のトラウマにより一つになりたくないシラカワ。二人だからできることなんだというマサキ」
(R18とのご要望でしたが、難しかったので全年齢です)